何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

熱中(症)時代

 

暑い……。

暑いのはみんなわかりきっていることなのに、あえて「暑い」と言葉にして念押しする心理というのはなんなんだろう。

しかしそれでも口を開けば言わずにはいられない。

暑い……。

 

暑さとともに問題になってくるのが熱中症である。

最近、読者になっている複数のブログで立て続けに「熱中症になったかも……」という記事を読んで、自分も気をつけないといけないなあと思ったのだ。

ある意味夏の定番の話題ではあるが、あまり嬉しくない定番である。

ところで、ふと気になったのだが、この「熱中症」という言葉は私が子どもの頃には聞かなかったような気がする。

夏に気をつけるように言われていたのは、「熱中症」ではなく「日射病」だった。

しかしいまでは逆に「日射病」という言葉をほとんど聞かない。

いつからそうなのだろう。

 

 

ネットでざっと調べてみると、2000年に医学のなんとかいう学会で、「日射病」や「熱射病」などを含む暑熱による体調の悪化を総称して「熱中症」ということに決めたらしい。(「熱中症」という言葉自体は以前からあった)

それがニュースなどを通じて広く流通し、定着していったのである。

そんなこと勝手に決められてもなあ、と思うけど、それなら私が子どもの頃に聞かなかったのも納得できる。

たしかに「日射病」というと屋外で日差しにあたったことによる体調不良に限定されるが、「熱中症」という言葉ならもっと広範囲をカバーできるので、言葉としては便利なのかもしれない。

 

いまの子どもたちのことは知らないが、私が子どもの頃は、外で遊ぶことが子どもの《本分》みたいに思われていた。子どもたちはジリジリと暑い夏の日盛りでも外で遊びまわり、真っ黒に日焼けした肌をちょっと自慢にしたものだ。

だから「日射病」に気をつけるようにと言われていた。

「日射病」という言葉には、なにかそういう、ノスタルジックな昭和の子どもの風景を連想させるものがある(ような気がする)。

 

ところで、これは心底どうでもいい話なのだが、私は「熱中症」という言葉を聞くと、20回に1回ぐらいは水谷豊主演の昭和のドラマ『熱中時代』を思い出す。

 


www.youtube.com

 

子どもの頃、夢中になって見てたなあ、あのドラマ。

これも昭和のノスタルジー

いや、だからどうしたというわけではないのだが……。

 

皆さま、熱中症にはくれぐれもお気をつけください。

 

 

家を壊す

 

私が住んでいる地区で、しばらく前から一軒の家の解体工事をやっていた。

二階建ての普通の民家で、築年数はわからないがだいぶ古い家のようだった。

その家の前の道が通勤路になっているので、私は仕事の行き帰りになんとなく工事の進捗状況を気にしていた。

 

家の側面から小さめのショベルカーで壊していき、バラバになった家の破片をトラックで運び去るという、ごくありふれた解体作業だ。

そんなに大きな家ではなかったので、数日で家屋の解体は終わったようだった。

家の周りには、庭という程でもない狭い敷地があって、大きな木が何本か植えてある。

その木は残して家だけ新築するのだろうかと思っていたら、家の解体に続いて木も全部切り倒され、根も掘り起こされた。露わになった木の根は、なんだか少しグロテスクな感じがした。

結局その土地は、敷地を隔てるブロック塀だけを残してすっかり更地になってしまった。そしていまも更地のままで、新しく家が建つ気配はない。

私は近所付き合いが苦手なので、そこにどんな人が住んでいたのか知らない。だからその人の事情も知らないし、その土地が今後どうなるのかもわからない。

いや、私も別にそれを知りたいというわけではない。私はただ、誰かが何十年か住んだであろう家が壊されていく様子が気になっただけである。

 


私がいま住んでいる家は、私が7歳の時に改築されたものだ。

改築といっても古い家の部分はほとんど残らなかったので、新築に近い改築だったと思う。それからもう40数年が経っている。外装も内装もガタガタだ。

私は18歳で家を出て、40歳で戻ってきた。戻ってきた時は、私と老父母の3人で暮らしていたのだが、母が寝たきりになって特養老人ホームに入所し、続いて父が亡くなり、結果私はいまこの家に一人で暮らしている。

その家を、あと10年ほどで壊そうと思っている。

 

私はこのまま「独居老人」になる予定だが、いま住んでいるところで老人が一人で生活するのは難しい。早い話しが、田舎で不便すぎるのだ。

なので、いまの仕事が定年になったら(それまでがんばれるかどうかは疑問だが)もっと生活しやすい街に引っ越したいと思っている。購入でも賃貸でも、70歳近くになると難しいらしいので、60代の前半にやっておきたい。

その時に家と土地を処分したいのだが、ちょっとした事情(*)があって家の建物を売ることができないのである。解体して更地にする必要があるのだ。

解体費用もかなりかかると思うけれど、仕方がない。

 

家や土地を処分せずに放置しておくという手もある。

実際、私が住んでいる地区にも、無人のまま放置された空き家が2、3軒あって、雑木や雑草に覆われている。

しかし放置しておいても税金はかかるのだし、なによりもやはり気分が良くない。

自分が生まれ育った家だからこそ、きっちり自分で始末しておくべきだと思う。

 

とはいえ、不精者の私のことだから、途中でめんどくさくなってずるずるとこの家に住み続けるということもおおいにあり得る。

いや、あり得るというか、むしろそっちの可能性の方が高いかもしれない。

そうなったらこのボロ家と私と、どっちが先に「オシャカ」になるかの勝負(?)である。

まあ、それならそれでいいような気もする。

 

(*)ちょっとした事情に関してはこちら。

paperwalker.hatenablog.com

 

 

幻の文学少女

 

前回、文学全集の端本(はほん)が好きだという話を書いたのだけど、それに関連して忘れがたい記憶があるので、ついでに書いておきたい。

 

いまから20年ぐらい前、このブログでもときどき書いている無職でぶらぶらしていた時代のことだ。

その頃の私の日課は、(当時住んでいた)市内に5、6軒あったブックオフを巡回することで、その日も普通に漫画の立ち読みをしていた。

夕方になって、そろそろ帰ろうかと思い、最後にもう一度均一棚をチェックしていたところ、学校帰りらしい女子高生がやはり熱心に棚を見ている。

彼女が見ていたのは、棚の上に並べられている昔の文学全集の端本だった。

一冊手に取って、箱から出してパラパラと中を確認し、また箱に入れて棚に戻し、次の本を手に取って……という動作を繰り返していた。

 

私はなんとなく気になって、それとなく彼女の様子をうかがっていた。

いや、別に彼女に不審な素振りがあったわけではない。(不審なのはむしろ私のほうだ)

若い女の子が古い文学に興味を持っているらしい様子が私の気を引いたのだ。

彼女はしばらくそうやって本を吟味していたが、やがて入口の方に歩いていった。

結局買わないのか、と思ったら、彼女は入口に置いてある買い物カゴを持って引き返し、棚にあった全集の端本を次々に10冊ぐらいカゴに入れ、それを両手で重そうに持ってレジに向かったのである。

私は呆気にとられたようにその様子を見ていた。

話はこれだけである。それ以上のことはなにも起こっていない。ただ女の子が本を買ったというだけのことだ。

にもかかわらず、私がいつまでもこんなことを覚えているのは、彼女の買いっぷりの良さもあるが、買ったのが文学全集の端本だったからだ。

 

前の記事にも書いたけれど、文学全集というのはだいたい二段組で500ページ前後ある。普通の本の2、3冊分ぐらいだ。ついでに言えば、総じていまの本より活字も小さく行間も狭い。つまり文字がぎっしり詰まっているのである。(オッサンの偏見かもしれないが)そういう古い本を若い女の子が一度に何冊も買うというのが意外だった。

同じ内容の本でも、これが文庫本であればここまで印象にも記憶にも残らなかっただろう。

文庫本をコンビニのおにぎりみたいなものだとしたら、文学全集の端本というのは白飯がぎっしり詰まったアルミの弁当箱みたいなイメージなのである。

そんな弁当箱からわしわしご飯を食べるように、彼女が熱心に文学全集を読んでいる姿を想像すると、なんだか頼もしいような気がしたのだ。

私は、余計なお世話ではあるけれど、なんとなく心の中で「がんばれよ」と思ったのだった。

(20年後の私は、「お前ががんばれよ、無職のオッサン」と思うのだけど)

 

彼女は私の中で「幻の文学少女という名前で記憶されている。

 

 

端本好き

 

ようやく尾崎一雄荻原魚雷編)『新編 閑な老人』を読み終えた。

それで、もっと尾崎一雄を読んでみたいと思ったのだが、いま新刊で手に入るのはこの本と岩波文庫ぐらいしかない。

私はその岩波文庫も持っている(ような気がする)。それだけでなく、古い新潮文庫旺文社文庫も持っている(はずだ)。……が、どこにあるのかわからない。

まあ、それはいい。いつものことだ。整理整頓能力のなさはいまに始まったことではない。

なので、こういう時は本を探すのをすっぱり諦めて(というか、最初から探す気もなく)また(古)本を買うのである。こうして際限なく本が増えていく。

 

こういう場合に私がよく買うのが、昭和に刊行された日本文学全集の端本(はほん)である。

端本というのは全集などのセットの中の一冊のことで、「揃い」に対して半端な本なので端本という。私はこの端本が好きなのだ。

それで今回買ったのがこれ。

筑摩現代文学大系47巻『尾崎一雄集』筑摩書房、1977)

 

箱カバーの写真がちょっと怖い……。

 

代表作の「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」を含む16の中短編と、10の随筆を収録している。これに「年譜」と、紅野敏郎による「人と文学」(解説)が付いているので、作家の《入門書》としてはうってつけなのである。

本文は二段組で約450ページ、普通の単行本2、3冊分ぐらいのボリュームがある。

これを時間をかけてちびちび読んでいきたい。

 

ところで、日本文学全集といえば、私は中央公論社の《日本の文学》全80巻を揃いで買って持っている。(ぜんぜん読めていないが)この中には当然、尾崎一雄も含まれている。

それならなにも別の本を買う必要はないではないか、と思うかもしれない。

しかし《日本の文学》の中の尾崎一雄は、外村繁、上林暁と合わせて一巻なのである。三人で一巻だから、一人当たりの収録作品は少なくなる。あえて上の端本を買った理由である。

 

昭和3、40年代にはいろいろな出版社から何種類もの文学全集が刊行された。特に筑摩書房は数年ごとに再編集やリニューアルを繰り返して何度も刊行している。過当競争というか、文学全集のインフレみたいな時代だったのだ。しかもその大量の全集が、それなりに売れていたのだからすごい時代である。

その数ある文学全集の中でも、尾崎一雄が一人で一巻を構成しているものは少なく、たいていは他の作家と合わせて一巻なのだ。

こんなふうに各種の文学全集を比較して、その編集の違いを見るのもマニアックな楽しみである。

 

こうした文学全集は、住宅事情や、人々の「教養」に対する考え方の変化などにより次第に需要がなくなっていく。そして各家庭にあった全集も「無用の長物」あつかいされるようになり、その多くが古本市場に流れていった。

しかし古本としても(大量にあるので)たいした価値はなく、多くは「均一本」として安く売られることになる。

昔はどこのブックオフに行っても、まとまった数の端本があったものだ。

ところが最近では、この手の本をほとんど見かけなくなった。私が行くところがたまたまそうなのか、全国的な傾向なのかはわからない。

あれだけあった全集も、さすがに出版から半世紀も経つと流通量が減ったということなのか。それとも、場所をとる割には儲けにならないので敬遠されているだけなのか。

いずれにしても、端本好きには寂しいかぎりである。

 

昭和の「出版遺産」とも言うべき文学全集、もっと活用されればいいと思うのだが。

 

 

おもしろがる才能

 

引き続き尾崎一雄荻原魚雷編)『新編 閑な老人』(中公文庫、2022)を読んでいる。

 

 

この本は短編と随筆で構成されているのだが、一番最後に「生きる」(1963)という短い随筆が収録されている。

この中で尾崎は「私は退屈ということを知らない。何でも面白い。」と言い、こう書いている。

 

 巨大な時間の中の、たった何十年というわずかなくぎりのうちに、偶然在ることを共にした生きもの、植物、石ーー何でもいいが、すべてそれらのものとの交わりは、それがいつ断たれるかわからぬだけに、切なるものがある。在ることを共にしたすべてのものと、できるだけ深く濃く交わること、それがせめて私の生きることだと思っている。(p.281 - 282)

 

そして「とにかく私は、この世に生きていることが楽しい。」と書く。

たまたまこの世界に生まれて、何十年か生きて、死んで無に帰る《自分》という存在。その《自分》とたまたま同じ時に存在する人、動植物、無機物。そう考えると、この世で興味をひかないものなど何一つない。

尾崎の小説や随筆は自身の身の周りのことを書いているものが多く、「身辺雑記」などと揶揄されることもあるけれど、作家の眼によって微細に観察された「身辺」はとても複雑で豊かである。尾崎はそれをおもしろいと思う。

楽観的かもしれないが、その根底には明るい無常感とでもいうべきものがある。楽観というより達観か。

尾崎は終戦の前年(45歳)に胃潰瘍で吐血し、一命はとりとめたものの、そこから長い療養生活に入る。上のような死生観は、そうした大病の経験が大きく影響しているのかもしれない。

 

もっとも、その大病以前から「何でも面白い」という感覚はあって、例えばこの本の最初に収録されている「五年」(1936)という短編ではこんなふうに書いている。

 

 ただ、生きていること、生きていることの毎日は、何となく滑稽で面白い。つまらぬことも、撫で廻していると面白い。平凡な草でも木でも、よく見ていると面白い。水の流れ、雲の流れ、子供の顔、とりどりに面白い。だが、そんなこと面白がって書いたとて、他人に見せたとて、どうもなるまいーーそんな気持だ。(p.20)

 

そんなことを書いても「どうもなるまい」とその当時の尾崎は言っているが、そういうおもしろさを突き詰めていくことで、尾崎は自分の文学をつくっていったのだと思う。

 

一見ありふれたもの、とるにたらぬもの、かわり映えのしない生活ーーそんなものでもよくよく目を凝らしてみれば、なにかしら興味をひかれるおもしろさがある。

そういうおもしろさを発見できること、何でもおもしろがれること、それは一つの「才能」だと言ってもいいかもしれない。

 

こうやってブログに雑文を書いている私にとって、尾崎一雄の人と文学からは学ぶべきところが多いように思う。

 

 

「あの頃」のことは知らないけれど

 

いま「週刊はてなブログ」でこんな特集が組まれている。

 

blog.hatenablog.com

 

タイトルを見て「あの頃? あの頃っていつよ?」と思ったのだが、上の記事の執筆者によるとこういうことらしい。

 

この特集を執筆している私自身も、インターネットの雰囲気は“あの頃”と大きく変わったように思います。“あの頃”というのは、上の記事で紹介したように、個人の日記サイトが盛んだったような時代です。“あの頃”を思い返すと、「諸行無常」の四文字が脳裏をよぎります。

 

この前の特集の「純日記」もそうだが、どうも最近の「はてなブログ」は日記ブログを推しているようだ。そうした日記ブログの文化を「はてなブログ」らしさとも言っている。

もっともその一方で、収益化の始め方なんていうガイドをつくっているのは、少し矛盾があるのではないかという気がしなくもない。

いや、日記ブログでも収益化はできるから、矛盾ではないのだが、なんとなく両者は相反するもののような気がしてしまう。

 

 

私自身は「あの頃」のことを知らない。

なにしろ日常的にインターネットに繋がるようになったのがほんの4、5年前のことだ。それまでは携帯電話(ガラケー)さえ持っていなかった。デジタル原人もいいとこである。

しかし以前、鈴木芳樹『スローブログ宣言!』という本を読んで、インターネットで個人サイトが盛んだった時代やブログの黎明期について、知識としては少し知っている。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

また、いまの「はてなブログ」でも、その頃のことを懐かしく回顧するような記事をときどき見かける。

そういう記事を読むと、なるほどその頃はおもしろい時代だったのかもしれないと思う。ネットの世界に活気があるというか、奇妙な情熱に溢れているというか、そんな感じがする。そして自分自身が「遅れてきたオッサン」のような気がしてくる。

しかし昔を羨んでもしょうがない。

 

以前にも少し書いたことだが、私も日記ブログがブログの王道ではないかと思っている。

しかし私自身のブログは日記ブログではない。日記を書いてみたいという気もないわけではないのだが、なんというか、逆にハードルが高い感じがする。

日記というと毎日書かなければならないような気がするし、そんなに毎日書くべきことがあるはずもない。(毎日にこだわらなくてもいいのかもしれないけど)

しかし私のブログに日記的要素がまったくないかというと、そういうこともない。

けっこう「身辺雑記」的なことも書いているし、本の感想にしても、後になってみれば「あの頃あんな本を読んでたんだ」という記録になっているはずだ。

「純日記」ではないけれど、「準日記」ぐらいにはなっていると思う。

 

私は「あの頃」のことを知らないけれど、その頃に負けないくらいいまのブログを楽しみたいと思っている。

 

 

素人・玄人

 

尾崎一雄荻原魚雷編)『新編 閑な老人』(中公文庫、2022)を読んでいる。

 

 

いままで尾崎一雄を読んだことはなかったが(でも本は何冊か持っている、はず)、荻原魚雷さんが好きなので読んでみた。

すると「退職の願い」(1964)という短編にこんな文章を見つけた。

 

 つくづく思うことは、自分が、一個の人間としても、社会人としても、いかに素人か、ということだ。六十四歳になってそんなことに気がついた。(p.42-43)

 

そう、そうなんだと、首が折れそうになるほど何度も頷いてしまった。私は53歳だけど、本当にそういう感じがする。

尾崎は続けてこう書く。

 

 もっとも、ここで云う素人に対する玄人というのが、どういうものかは、よく判らぬ。判らぬけれども、そんなものがあるのだろうと思わぬわけにはいかない。ーー未熟もの、練達者という言葉も浮かぶが、私の感ずる素人、玄人は、それと似ていながら、どこかで少し違うようだ。(p.43)

 

私にも尾崎が言うところの「素人・玄人」が具体的にどういうことなのかはわからない。わからないけれども、なぜかこの言葉がしっくりくる。

 

ここから先は私が考える人生の素人・玄人についてである。(尾崎が言うそれとは少し違うかもしれないが)

自分で言うのもおかしいが、どうも私は人間としてバランスが悪いようだ。

さっきも書いたように私は53歳になるけれど、「世間並」の53歳に比べて知らないことが多いし、できないことも多いような気がする。こう書くと、「人はそれぞれでいいのだから、そんな『世間並』や『人並』なんていうのは幻想にすぎない、気にするな!」という人もいるかもしれないが、しかしここまで生きてきた実感として「世間並」や「人並」という基準はやはりどうしたって世の中に存在している。

世の中で生きていくことを「世渡り」というけれど、私にとってそれは「綱渡り」みたいなものだ。

細い綱の上を一歩一歩バランスをとりながら、ゆっくり、慎重に、おっかなびっくり進んでいく。そんな感じでなんとか世の中を渡っている。(でもときどき落っこちる)

ところがほかの人は、同じ綱の上のはずなのに、普通の道でも歩くようにしっかりした足取りで平気でずんずん進んでいる(ように見える)。

世の中にある「制度」「しきたり」「人づきあい」その他諸々、そんな複雑なものを苦もなく難なく “そつ” なくこなしている(ように見える)。自分が世の中でしなければならないことがちゃんとわかっていて、実際にそれができる(ように見える)。

私に言わせれば、そういう人が人生の「玄人」なのである。

 

もちろんみんな初めから「玄人」だったわけではない。世の中に出た時はみんな「素人」だ。それが経験を積み重ねて「玄人」になっていく。しかしなかには、いたずらに馬齢を重ねるだけで、そうはなれない者もいる。

どうがんばっても、私はそんな「玄人」にはなれそうもない。

私はいつまでたっても危なっかしい人生の「素人」である。