ブログを始めて2年経ったが、いまだにブログの方向性が定まっていない。
試行錯誤を繰り返している、と言えば多少は聞こえがいいが、フラフラして腰が落ち着かない感じがする。
そんなふうだから(2年続けた割には)あまり読まれていないのかと、なけなしの自信がさらになくなり、迷いも深くなる。
そこで何かの参考になればと、こんな本を読んでみた。
最初に断っておくと、これは今から16年前に書かれた本なので、ここに書かれていることをそのまま現在に当てはめることはできない。
当時と現在とでは、インターネットやブログをめぐる状況がかなり違う。当時は(おそらく)ブログというものが流行り始めた頃で、それに対して今は「ブログはオワコン」とさえ言われている。
しかし、表面的な部分は違っても、根幹の部分、不特定多数の人に向けてネット上で何かを発信することについての考え方には、現在でも参考になることが多いように思う。
私が興味深く思ったのは、著者が、ブログに書かれている個人的な「日記」のおもしろさを強調しているところだ。
現在もそうだが、当時からブログには「役に立つ記事」や「有益な情報」を書くべきで、個人的な「日記」なんか書いても意味がないし、誰も読まないといった意見が強い。
しかし著者は、きれいに体裁が整った記事よりも、「殴り書き」のような日記の方がおもしろいという。そこに書き手の意図しない個性があらわれるからだ。
それに、そういう日記のほうが長く書き続けられる。
「価値のある情報を提供しよう」と気張りすぎて、身の丈に合わない「記事」を書いているブログと、本当に言いたいこと、本当に経験したことを伝えようとして自然体で「日記」を書いているブログ。長続きするのはどちらだろうか。より多くのひとに読まれるのはどちらだろうか。(p.123)
とはいえ、自分が書いたものに他人があまり反応してくれないとモチベーションが下がるし、心が折れる。ブログを始めた人の多くが1年も続かないというのは周知の事実だ。
しかし、それでも自分の書きたいことを(気長に)書き続けるべきだ、と著者は言う。
自分の書いた文章に対する反響がないと、「誰からも相手にされていないのでは?」と不安になり、つい周囲の興味を惹きそうなことを書いたり、がらでもないのに専門的な議論に参加したくなる。それが悪いことだとは思わないが、「注目されたい」「相手にされたい」と思うあまり、本来の自分を見失ってはつまらない。自分の書いていることは、たとえいますぐ目立った反応がなかったとしても、百年後の誰かにとっては何らかの意味があるかもしれない。そんな「スロー」な姿勢でブログと付き合ってもいいはずだ。(p.137-138)
「百年後」という言葉は唐突に感じるだろうが、これは百年前に書かれた市井の人の日記が今では貴重な文化的資料になっているという文脈で出てきた言葉だ。
まあ、百年後はともかく、自分が書いた文章にいつか誰かが興味を持ってくれるかもしれない、というぐらいの気持ちで書き続けていこうということだと思う。
なかなか「結果」が出ないことをやり続けるのは難しい。
しかし、それではブログにおける「結果」とはなんだろう?
収益を得ること? 承認欲求を満たすこと? 見知らぬ人と交流すること?
どれも間違ってはいないと思うが、なにかもっと違う「結果」があるような気がする。
それが何なのか、私にもわからない。ただ感じるのは、それは1年や2年続けたぐらいでは見えてこないだろうということだ。
その「結果」が何かわかるまで、気長に書き続けたいものだ。
そんなことを思った。