何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

おもしろがる才能

 

引き続き尾崎一雄荻原魚雷編)『新編 閑な老人』(中公文庫、2022)を読んでいる。

 

 

この本は短編と随筆で構成されているのだが、一番最後に「生きる」(1963)という短い随筆が収録されている。

この中で尾崎は「私は退屈ということを知らない。何でも面白い。」と言い、こう書いている。

 

 巨大な時間の中の、たった何十年というわずかなくぎりのうちに、偶然在ることを共にした生きもの、植物、石ーー何でもいいが、すべてそれらのものとの交わりは、それがいつ断たれるかわからぬだけに、切なるものがある。在ることを共にしたすべてのものと、できるだけ深く濃く交わること、それがせめて私の生きることだと思っている。(p.281 - 282)

 

そして「とにかく私は、この世に生きていることが楽しい。」と書く。

たまたまこの世界に生まれて、何十年か生きて、死んで無に帰る《自分》という存在。その《自分》とたまたま同じ時に存在する人、動植物、無機物。そう考えると、この世で興味をひかないものなど何一つない。

尾崎の小説や随筆は自身の身の周りのことを書いているものが多く、「身辺雑記」などと揶揄されることもあるけれど、作家の眼によって微細に観察された「身辺」はとても複雑で豊かである。尾崎はそれをおもしろいと思う。

楽観的かもしれないが、その根底には明るい無常感とでもいうべきものがある。楽観というより達観か。

尾崎は終戦の前年(45歳)に胃潰瘍で吐血し、一命はとりとめたものの、そこから長い療養生活に入る。上のような死生観は、そうした大病の経験が大きく影響しているのかもしれない。

 

もっとも、その大病以前から「何でも面白い」という感覚はあって、例えばこの本の最初に収録されている「五年」(1936)という短編ではこんなふうに書いている。

 

 ただ、生きていること、生きていることの毎日は、何となく滑稽で面白い。つまらぬことも、撫で廻していると面白い。平凡な草でも木でも、よく見ていると面白い。水の流れ、雲の流れ、子供の顔、とりどりに面白い。だが、そんなこと面白がって書いたとて、他人に見せたとて、どうもなるまいーーそんな気持だ。(p.20)

 

そんなことを書いても「どうもなるまい」とその当時の尾崎は言っているが、そういうおもしろさを突き詰めていくことで、尾崎は自分の文学をつくっていったのだと思う。

 

一見ありふれたもの、とるにたらぬもの、かわり映えのしない生活ーーそんなものでもよくよく目を凝らしてみれば、なにかしら興味をひかれるおもしろさがある。

そういうおもしろさを発見できること、何でもおもしろがれること、それは一つの「才能」だと言ってもいいかもしれない。

 

こうやってブログに雑文を書いている私にとって、尾崎一雄の人と文学からは学ぶべきところが多いように思う。