何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

端本好き

 

ようやく尾崎一雄荻原魚雷編)『新編 閑な老人』を読み終えた。

それで、もっと尾崎一雄を読んでみたいと思ったのだが、いま新刊で手に入るのはこの本と岩波文庫ぐらいしかない。

私はその岩波文庫も持っている(ような気がする)。それだけでなく、古い新潮文庫旺文社文庫も持っている(はずだ)。……が、どこにあるのかわからない。

まあ、それはいい。いつものことだ。整理整頓能力のなさはいまに始まったことではない。

なので、こういう時は本を探すのをすっぱり諦めて(というか、最初から探す気もなく)また(古)本を買うのである。こうして際限なく本が増えていく。

 

こういう場合に私がよく買うのが、昭和に刊行された日本文学全集の端本(はほん)である。

端本というのは全集などのセットの中の一冊のことで、「揃い」に対して半端な本なので端本という。私はこの端本が好きなのだ。

それで今回買ったのがこれ。

筑摩現代文学大系47巻『尾崎一雄集』筑摩書房、1977)

 

箱カバーの写真がちょっと怖い……。

 

代表作の「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」を含む16の中短編と、10の随筆を収録している。これに「年譜」と、紅野敏郎による「人と文学」(解説)が付いているので、作家の《入門書》としてはうってつけなのである。

本文は二段組で約450ページ、普通の単行本2、3冊分ぐらいのボリュームがある。

これを時間をかけてちびちび読んでいきたい。

 

ところで、日本文学全集といえば、私は中央公論社の《日本の文学》全80巻を揃いで買って持っている。(ぜんぜん読めていないが)この中には当然、尾崎一雄も含まれている。

それならなにも別の本を買う必要はないではないか、と思うかもしれない。

しかし《日本の文学》の中の尾崎一雄は、外村繁、上林暁と合わせて一巻なのである。三人で一巻だから、一人当たりの収録作品は少なくなる。あえて上の端本を買った理由である。

 

昭和3、40年代にはいろいろな出版社から何種類もの文学全集が刊行された。特に筑摩書房は数年ごとに再編集やリニューアルを繰り返して何度も刊行している。過当競争というか、文学全集のインフレみたいな時代だったのだ。しかもその大量の全集が、それなりに売れていたのだからすごい時代である。

その数ある文学全集の中でも、尾崎一雄が一人で一巻を構成しているものは少なく、たいていは他の作家と合わせて一巻なのだ。

こんなふうに各種の文学全集を比較して、その編集の違いを見るのもマニアックな楽しみである。

 

こうした文学全集は、住宅事情や、人々の「教養」に対する考え方の変化などにより次第に需要がなくなっていく。そして各家庭にあった全集も「無用の長物」あつかいされるようになり、その多くが古本市場に流れていった。

しかし古本としても(大量にあるので)たいした価値はなく、多くは「均一本」として安く売られることになる。

昔はどこのブックオフに行っても、まとまった数の端本があったものだ。

ところが最近では、この手の本をほとんど見かけなくなった。私が行くところがたまたまそうなのか、全国的な傾向なのかはわからない。

あれだけあった全集も、さすがに出版から半世紀も経つと流通量が減ったということなのか。それとも、場所をとる割には儲けにならないので敬遠されているだけなのか。

いずれにしても、端本好きには寂しいかぎりである。

 

昭和の「出版遺産」とも言うべき文学全集、もっと活用されればいいと思うのだが。