何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

幻の文学少女

 

前回、文学全集の端本(はほん)が好きだという話を書いたのだけど、それに関連して忘れがたい記憶があるので、ついでに書いておきたい。

 

いまから20年ぐらい前、このブログでもときどき書いている無職でぶらぶらしていた時代のことだ。

その頃の私の日課は、(当時住んでいた)市内に5、6軒あったブックオフを巡回することで、その日も普通に漫画の立ち読みをしていた。

夕方になって、そろそろ帰ろうかと思い、最後にもう一度均一棚をチェックしていたところ、学校帰りらしい女子高生がやはり熱心に棚を見ている。

彼女が見ていたのは、棚の上に並べられている昔の文学全集の端本だった。

一冊手に取って、箱から出してパラパラと中を確認し、また箱に入れて棚に戻し、次の本を手に取って……という動作を繰り返していた。

 

私はなんとなく気になって、それとなく彼女の様子をうかがっていた。

いや、別に彼女に不審な素振りがあったわけではない。(不審なのはむしろ私のほうだ)

若い女の子が古い文学に興味を持っているらしい様子が私の気を引いたのだ。

彼女はしばらくそうやって本を吟味していたが、やがて入口の方に歩いていった。

結局買わないのか、と思ったら、彼女は入口に置いてある買い物カゴを持って引き返し、棚にあった全集の端本を次々に10冊ぐらいカゴに入れ、それを両手で重そうに持ってレジに向かったのである。

私は呆気にとられたようにその様子を見ていた。

話はこれだけである。それ以上のことはなにも起こっていない。ただ女の子が本を買ったというだけのことだ。

にもかかわらず、私がいつまでもこんなことを覚えているのは、彼女の買いっぷりの良さもあるが、買ったのが文学全集の端本だったからだ。

 

前の記事にも書いたけれど、文学全集というのはだいたい二段組で500ページ前後ある。普通の本の2、3冊分ぐらいだ。ついでに言えば、総じていまの本より活字も小さく行間も狭い。つまり文字がぎっしり詰まっているのである。(オッサンの偏見かもしれないが)そういう古い本を若い女の子が一度に何冊も買うというのが意外だった。

同じ内容の本でも、これが文庫本であればここまで印象にも記憶にも残らなかっただろう。

文庫本をコンビニのおにぎりみたいなものだとしたら、文学全集の端本というのは白飯がぎっしり詰まったアルミの弁当箱みたいなイメージなのである。

そんな弁当箱からわしわしご飯を食べるように、彼女が熱心に文学全集を読んでいる姿を想像すると、なんだか頼もしいような気がしたのだ。

私は、余計なお世話ではあるけれど、なんとなく心の中で「がんばれよ」と思ったのだった。

(20年後の私は、「お前ががんばれよ、無職のオッサン」と思うのだけど)

 

彼女は私の中で「幻の文学少女という名前で記憶されている。