gtag('config', 'UA-189317092-4');

何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

寒波ハンパねぇ

 

1月23日(月)

先週から「10年に一度の寒波襲来」と騒がれているが、いまのところそんな感じもしない。

今日なんか天気も良くて、なんなら少し暖かいぐらいだった。

仕事が終わって帰る時、部長から「(明日は私は休みなので)明後日、早朝勤務の時に雪が積もっていたら、絶対バイクでは来ないように。歩いて来るか、さもなければ欠勤してもいいから。とにかく安全第一で」と言われる。

実は去年のクリスマスに雪が積もった時、いつも通りバイク(原付)で出勤して部長に危険だから止めるようにとたしなめられていたのだ。

私は素直に「はい」とうなずく。内心では、今日の天気の具合ではそんな大事にはなるまいとタカを括っていたのである。

10年に一度とか、ちょっとおおげさすぎやしないか? 

 

1月24日(火)

休日。午前9時ごろ起床。(最近の休日はいつもこのくらいの時間に起きる)

確かに寒いが雪は降っていない。

ただ風はとても強い。ボロい家屋の窓をガタガタと容赦なく揺らし、時折魔物の断末魔のような音を立てて吹きつけている。

ちょっと不安になるが、まあ雪が降らなければ別に……と思っていたら、昼ごろから降り始める。雪片自体は大きくないようだが、強風と相まって吹雪になる。しまった。午前中に買い物に行っておけばよかった。

実はご飯を炊いた時に、米があと1日分しかないことに気づいたのである。その時はまだ雪が降っていなかったので、午後の早い時間に買いに行けばいいかと思っていたのだが。しかしまあ、パンとかカップ麺の買い置きがあるので、2、3日は籠城できるはずだ。

午後からはずっと布団の中にいて、だらだらと動画を見たりブログを読んだりして過ごす。(もっとも休日は悪天候じゃなくてもこんな感じだけど)

ブログでは多くの人が今回の寒波について書いていた。このテーマだけで特集が組めそう。

夜10時ごろに家の外に出てみると、すでに数センチ程度の雪が積もっていた。明日の朝はどうなっていることか。

すきま風が冷たくてなかなか寝付けなかった。

 

1月25日(水)

朝4時、いつもより30分早く起きて外の状況を確認する。

雪は昨日の夜以上には積もらなかったようだ。試しに雪の上を歩いてみると少し滑る。新しく積もらなかったので、雪の表面が凍っている感じだ。

郵便受けには律儀に新聞が入っている。しかしバイクの轍はなく、かわりに靴の跡が残っている。歩いて配達しているのだろうか。だとしたらなんだか申し訳ない。

さてどうするか。

バイクで行くのは諦めた。ある意味バイクのプロである新聞配達でさえ歩いているのだ。

歩いて行くのなら着替えてすぐに家を出なければならない。家から職場まで、歩けば1時間半かかる。これからこの低温の中を1時間半……。

しばらく迷っていたが、体が冷えてきて心も折れた。始業時間前に欠勤の電話を入れる。

なんだか少し後ろめたい。サボったわけではないけれど、無理をすれば行けないこともなかった。実際、去年までの私ならこんな状況でも無理をしてきたのだ。しかし今日の私は無理ができなかった。体力以上に気力の衰えを痛感する。なんだかなあ。

しかし休んだものはしょうがない。とりあえず二度寝しよう。

 

……というのがここ2、3日の状況だった。

珍しく日記のような文章を書いたのは、「10年に一度の寒波」を記録しておきたかったからだが、あまり記録らしくもない。

なんだか仕事を休んだ言い訳みたいになってしまったなあ。

 

 

生きてるだけじゃダメかしら

 

今日も何もしない見事に無為な休日だった。

前にも書いたことだが、何もしなかった休日にはうっすらと後悔のような罪悪感のような気持ちが生まれる。あくまでも「うっすら」程度だけど。

 

しかし「何もしていない」と言ってもそれは言葉の綾で、やっぱり何かはしているわけだ。あるいは本当に何もしなかったとしても(屁理屈だが)最低限「生きること」はしたとも言える。

それでふと思うのだが、人間は生きて《何か》をしなければ満足できないのだろうか。ただ生きてるだけでは満足できないのだろうか。

いや「人間は」などと主語を大きくする必要はない。

私はただ生きてるだけでは満足できないのだろうか。

 

例えば人生の目的だとか、生きることの意味だとか、そういったことを考えず、ただ単純に(あるいは純粋に)生き物としていま・ここに生きていることに喜びや幸福や満足を感じるような、そんな生き方ができるだろうか。

例えば鳥や獣のように、あるいは草や木のように、全力でただ生きることができるだろうか。

できないだろうなあ。

いや、私は何も「自然に帰れ」などと言いたいわけではなく、生きることそれ自体に喜びを感じたいのである。

 

人間は(また主語が大きくなった)生きることにいろいろなものをくっつける。それが人間らしさというか、人間の人間たる所以なのかもしれないが、それがあまりに大きく複雑になりすぎると、生きること自体を圧迫し、生きる力を弱らせ、生きる喜びを感じにくくするのではないか。

生きること、生きていることそれ自体に喜びが感じられるくらいシンプルに力強く生きられないものか。

 

そんな抽象的で益体もないことを考えてしまう休日。

疲れているのかねぇ。

 

 

最近の味噌汁事情

 

休日。昨日の洗い物を片付けて米を研ぎ、味噌汁を作る。

今日の味噌汁は「大根+油揚げ」である。(正確にはこれにえのきと、後で刻み葱がが加わる)

小さな鍋に目分量で水を入れて火にかけ、銀杏切りにした大根(適量)と切って冷凍しているえのき(適量)を放り込み、顆粒の「だし」を入れ、ある程度大根が煮えたら味噌(適量)をお椀で溶きながら入れる。そして刻み揚げを入れてさらに一煮立ちすればできあがり。刻み葱は食べる時にお椀に入れる。

私は自炊歴はけっこう長いが適当かつ手抜きなので、手の込んだものは作れない。その点味噌汁は簡単だし、よほどのことがない限り食えなくなる程まずくはならないので良い。

 

 

自分で積極的に味噌汁を作るようになったのはここ十年ぐらいのことである。それまではインスタントのやつを使っていた。

子供の頃は味噌汁なんてほとんど食べなかった。もちろん家でも作っていたけれど、私はいらないと言って食べなかった。だから味噌汁に「お袋の味」みたいな思い出はない。

(いまふと思ったのだけど、味噌汁は「食べる」と言えばいいのだろうか、「飲む」と言えばいいのだろうか? 具がたくさん入っていれば「食べる」で、少なければ「飲む」なのか? 面倒なのでここでは「食べる」にしておこう)

よく食べるようになったのは大学に入って一人暮らしを始めてからで、理由は汁物があった方がご飯が進むからである。貧乏学生の食事で大切なのは味でも健康に良いことでもなく、安くて満腹になることなので、とにかく白飯が進むことが重要だ。そしてそれは学校を卒業して貧乏学生からただの貧乏人になっても変わらなかった。(最近はさすがに少しは健康を考えるようになったけど)

しかしインスタントの味噌汁は具が4種類ぐらいで飽きるし、具の量も少ない。それで自分で作るようになった。

作ってみるとけっこう簡単で、手抜きでもそれなりにうまい。それに具の組み合わせを考えるのもちょっと楽しい。

 

そんな私が去年よく作ったのがベーコンを使った味噌汁である。

「味噌汁にベーコン!?  いやいや、それはないわ〜」と思ったあなた。あなたの気持ちはよくわかる。が、だまされたと思って一度試していただきたい。これがむちゃくちゃうまいから。(味噌の種類にもよるかもしれないが)

さらにそのベーコンに合わせる野菜もいろいろ試してみた。玉ねぎ、キャベツ、ほうれん草、ブロッコリーなど、どれもうまかったのだが、最もベーコンに合うと思ったのが白菜である。

いまのところ「ベーコン+白菜」の味噌汁が一番うまい。ベーコンの塩気と白菜の甘みが、なんかこう、いい具合なのだ。(食レポ能力ゼロ)

これはもう水谷豊と寺脇康文の『相棒』みたいなもので、やっぱりこの組み合わせが一番しっくりくる。

もう一度言うけど、だまされたと思って作ってみてください。

もっとも私は貧乏舌だからアテにはならんけど。

さて、次はどんな具材を試してみようかな。

 

 

新年の挨拶 2023

 

あけましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします

 

はてなブログ」でなんとか4回目の新年の挨拶をすることができました。

これも読んでくれるみなさんのおかげです。

ありがとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

 

今年のブログの目標は、第一に「継続」

どういうペースになるかはわからないけれど、細々としぶとく続けていこうと思う。

そして内容的には、このブログの本来の姿である(と本人は思っている)読書ブログに近づけたい。

 

その読書に関する目標は、まず「買った本はすべて読む」こと。(笑)

浜の真砂は尽きるとも、欲しい本が尽きることはない。

しかしながら実際に読める本の量は限られている。欲しい本は無限にあっても、時間は(そしてお金も)有限である。ましてや「貧乏暇なし」の身ではなおのこと。欲望のままに本を買っても積ん読の山が高くなるばかり。

買うべき本はきちんと吟味して、買った本はちゃんと読むというのが健全な本読みの姿だろう。

買うなら積むな、積むなら買うな。

今年は健全な読書生活を目指そう。

 

……などと殊勝なことを考えたのだけど、3日もすれば忘れてるだろうなあ。

結局今年も興味のおもむくままにだらだらと買ったり読んだり書いたりしていくことになるだろう。

まあ、そんな適当な感じで今年もよろしく。

 

 

2022年のブ活をふりかえる

 

今年も残すところ一週間あまり。

そこで今年2022年のブ活(ブログ活動)をふりかえってみる。

 

今年は前半と後半でまったく調子が違ってしまった。

右側にある「月別アーカイブ」を見れば一目瞭然のように、後半ではブログの記事数がガクッと落ちた。前半では月に6~8件の記事を書いていたのに、後半では半減している。

8月に「夏休み」と称してしばらく休んだのが良くなかったようだ。これで更新のペースが乱れたというか、緊張感が切れてしまったらしい。

その辺りのことは、こんな記事に書いた。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

この記事に付け加えるとすれば、やっぱり記事を書くのに必要な時間の問題だろうか。時間がまったくないわけではないが、ブログにばかり時間を費やすわけにはいかない。

私は記事を書くのがものすごく遅い。

私が書く記事はだいたい1000文字前後ぐらいの長さだが、たったそれだけのものを書くのにどうかすると半日ぐらいかかることがある。(内容にもよるけれど)

これでは休日のほとんどがそれだけで終わってしまう。いくらなんでも時間がかかり過ぎる。書くことに効率を求めるつもりはないけれど、ほかにやらなければならない生活上の諸々だってある。

それに、時間をかければかけただけ良い記事・良い文章が書けるのならいくらでも時間をかけるが、そうとも言えないところが書くことの難しい(そしておもしろい)ところで。

 

いや、やっぱりこれは言い訳か。

ブログを書く時間を捻出するのに苦労しているのはみんな同じだろう。それでも(毎日ではなくても)きちんと定期的に、しかもおもしろいブログを書いている人はたくさんいる。

努力なのか、情熱なのか、習慣化なのか、とにかくそういう人もいるのである。(才能とは思いたくない)

時間を理由にはできない。上の記事でも書いたように、やっぱり気持ちの問題か。

 

 

さて、来年はこのブログ、どうなるかなあ。

主体的に「どうするか」ではなく「どうなるか」と言ってるところが、すでにもうなんかアレだけど……。

 

そんなブログに対するいまの気持ちを、こんな替え歌にしてみました。(唐突!)

元歌は吉田拓郎「今日までそして明日から」です。

 

わたしは今日まで書いてみました

時には迷って立ち止まりながら

時にはだれかに励まされながら

わたしは今日まで書いてみました

そしていま わたしは思っています

明日からも

こうして書いていくのだろうと

 


www.youtube.com

 

まあそんな感じで、なんだかんだ言いながら続いていくのだろうと思う。

 

どうも景気の悪い話になってしまったが、最後に感謝を。

今年一年、このブログを読んでくれたすべての人と、おもしろいブログを読ませてくれたすべての人に感謝いたします。ありがとうございました。

とりあえず来年もよろしく。

 

今週のお題ビフォーアフター

 

 

家計簿

 

コクヨ「キャンパス・ダイアリー2023  ウィークリーバーチカル」というノートを買った。

 

 

本来の用途はスケジュール帳で、ウィークリー(週間)のバーチカル(縦割り)タイプである。私はこれを簡単な「家計簿」として使っている。これがとても使い勝手がいい。

ただ、マンスリータイプに比べるとあまり人気がないのか、近くのスーパーの文具コーナーなどではあまり見かけない。探すのにちょっとだけ苦労する。

 

どんなふうに使うのかというと、こんな感じ。

 

 

上段の数字は上から順に「食費」、「趣味費」(ほとんど本)、その他の「雑費」になっている。この3つが日々の生活の基本出費である。そして下段にその大まかな内容を書いている。

カレンダーの下の数字は一週間のまとめで、月末には一か月分を集計する。

もちろんこの他に光熱費や通信費などもあるのだが、そういうものはだいたい預金口座からの引き落としになっているので、一ヶ月か二ヶ月に一度通帳記入をしてそれをノートに書き写す。

また、突発的でやや金額の大きい出費(例えばバイクのタイヤ交換とか葬式の香典とか)は基本出費とは別に書いておく。

こんな感じで日々の生活の出費を把握するようにしている。

誰かに報告するわけではないし、どこかから監査が入るわけでもないのであくまでも大雑把なものだが、こうして記録することが多少は無駄遣いの抑止力になっているのではないかと思う。

 

そしていまぐらいの時期になると、一年間のだいたいの出費(12月分は見込み)を計算してため息をついたりする。

具体的なことは書かないが、私の一年間の収入と出費は、ほんの少しだけ収入が上回るだけで、ほとんどトントンになってしまう。ここ数年はずっとそんな感じだ。

収入が低すぎるのか、やりくりが下手すぎるのか、まあその両方なのだが、赤字にならないだけマシとはいえなかなかお金が貯まらない。

良く言えば安定しているが、ずいぶんと低いところで安定している。超低空飛行である。ちょっと操作を誤ると簡単に墜落してしまう。

だから墜落しないように家計簿をつけている。

一人暮らしのオッサンがちまちまと家計簿をつける姿は、そこはかとなく悲しいものがあるけれど。

 

そんなふうに爪に火をともすように慎ましく生活している私にとって、最近の値上げラッシュはなかなかの痛手である。

しかしそんな時こそ家計簿でバランスを取りながら落ち着いて生活しなければならない。値上げに過剰に反応する人ほど、家計は「丼勘定」だったりする。

とりあえず何か削れる出費がないか、検討してみるか。

その場合、間違っても「読みもしない本を買わないようにすれば……」などとは考えないように。

 

 

葬式にはまだ慣れない

 

先日、親戚の葬式に行ってきた。

亡くなったのは私の父の姉にあたる人で、つまりは伯母である。93歳だった。

子どもの頃にはかわいがってもらった記憶があるが、私が大人になってからはほとんど会う機会がなかった。最後に会ったのは父の葬式の時だったか。

 

結び慣れないネクタイを結び、着慣れない礼服を着て、履き慣れない靴を履く。その時点でもう気持ちが落ち着かない。

時間に余裕を持って家を出たつもりだったが、葬儀場に着いた時にはすでに読経が始まっていた。近親者だけの式ということだったが、場内には40人ぐらいの人がいた。

一目見て一番偉いとわかるお坊さんと、アシスタント(?)的なお坊さんが2人いた。お経はメインのお坊さんに他の二人が和するような形で、3人で読んでいた。アシスタントの2人はその他に「木魚」や「りん」、それからシンバルみたいな音がする仏具(「妙鉢」という名前らしい)も担当している。(不謹慎だが)なんだかバンドみたいだなと思う。

 

 

読経の途中で通路を挟んだ反対側の席を見ると、小学生ぐらいの男の子と女の子が、退屈なのか落ち着かないのか、そわそわもぞもぞと体を動かしている。

まあ無理もない。あのくらいの歳の子どもに、神妙な顔でじっとしていろと言う方が無理というものだ。50を過ぎたオッサンでも落ち着かないのだから。

こういう状況でじっとしていられるようになることが、大人になるということなのか。

 

ふと、自分はこれまでの人生で何回葬式に出ただろうと思う。身内と他人の分を合わせても10回もないのではないか。

そして、これからの人生であと何回葬式に出ることになるだろうと思う。たぶんこれからのほうが多くなるはずだ。回数を重ねていけばだんだん葬式慣れしていくのだろうか。

 

正直なところ、私には葬式というものがいまひとつよくわからない。

それが死者のためというよりは生者のためのものであり、遺された者が気持ちの整理をつけるために必要な儀式だというのはわかる。

しかしそういう気持ちの問題と、目の前で行われている一連の儀式がどうもうまく結びつかない。

 

私には妻子はいないし、友人知人もほとんどいないから、そういう意味では「遺される者」というほどのものはない。

私自身も、自分が死んだ後のことなどどうでもいい。さすがに自分の遺体を自分で始末することはできないので、そこは誰かの手を煩わせなければならないが、それだけやってもらえれば充分だ。

だから私に葬式はいらない。

……と、いま現在の自分、50代で大きな病気もない自分は思っているけれど、もっと歳をとって、死がよりリアルに感じられるようになってきたらどうだろう。

やっぱり寂しくなって、誰かに弔ってもらいたいと思うかもしれない。

それはその時になってみないとわからない。