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何を読んでも何かを思いだす

あてのない読書、あてにならない感想、その他。

なんでも煮てやろう

 

冷蔵庫の豆腐が消費期限間近だったので、冷凍しておいた牛肉と合わせて「肉豆腐」をつくることにする。

ベースの煮汁は例によって「めんつゆ」でつくり、やはり冷蔵庫にあった玉ねぎ(半分)とえのきを適当に切って入れ、牛肉を入れてほぐし、豆腐を入れて煮るだけの、いつもの手抜き料理である。

煮物は一度に四食分ぐらいつくるので後が楽だ。

 

しかし、いまさらながら「めんつゆ」というのは便利なものだ。

煮物はもちろん、冷奴や天ぷらにかけてもよし、野菜炒めの味付けに使ってもよし、うどんのつゆにしてもよし。ほとんど万能調味料といっていい。

とくに煮物は、何を煮てもそこそこおいしくなるのでとても重宝している。

 

学生時代に自炊を始めた時から使っているが、とくにここ10年ぐらいは同じメーカーのものばかり買っている。

ヤマサ醤油「昆布つゆ」である。

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(画像は「ヤマサ醤油」のHPから借用)

 

ほかの商品と比較して「コレに決めた!」というのではなく、なんとなくいつもこれを買っているという感じだ。

味に過不足がないというか、味が安定するというか、私の舌に合うのだ。

もっとも「貧乏舌」の私にそう言われても、かえって迷惑かもしれないが。

 

ついでにトリビアを一つ。

ヤマサ醤油ロゴマークは山笠に「サ」の字である。(下図)これにはどういう意味があるのか?

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実は江戸時代初期の1645年(正保2年)、創業者の濱口儀兵衛(紀州広村出身)が銚子に移って店を始める時、儀兵衛の「儀」から、山笠に「キ」の字を用いて暖簾の印にしようとした。

ところがその印は、故郷である紀州徳川家の船の印とかぶってしまい、それはまずいということで、「キ」を横にして「サ」と読ませたのである。それで「ヤマサ」。

ちなみに山笠の上の「上」の字は、1864年(元治元年)、幕府から与えられた「最上醤油」の称号を意味している。

へ〜。

 

それはともかく冒頭に書いた肉豆腐である。

実は、いざつくろうと思って冷凍庫を開けたところ、あると思っていた牛肉がなかった。私の記憶違いだったのだ。

これは困った。しかしいまから買いに行くのも億劫だ。仕方がないのでこのままつくることにした。これではただの「煮豆腐」である。

まあ、物足りないけれど、たまにはヘルシーでいいか。

それに、肉豆腐(にくどうふ)が煮豆腐(にどうふ)になったおかげで、苦(く)もなくつくれる……なんて。(おあとがよろしいようで)

 

 

漢詩でララバイ

 

二十代の頃、ちょっと荒んだ生活をしていた時期がある。

といっても悪い事をしていたわけではなく、ほとんど無職でぶらぶらしていただけなのだが。

その頃の一日はだいたい午前10時とか11時ぐらいから始まる。とりあえず飯を食ったら、さて、今日は何をして時間を潰そうかと考える。

考えるといってもだいたいやることは決まっていて、多少お金がある時(ときどきは日雇いの派遣の仕事をしていた)はパチンコに行く。お金がない時は図書館か、ブックオフで漫画の立ち読み。外に出るのも億劫だったり、雨が降ったりした時には家にこもって一日中テレビを見る。たいていこの三つのどれかだった。

そうやって毎日をやり過ごしていた。

 

こういう生活の常として、寝る時間がどんどん遅くなる。

眠くないというわけではない。でも眠りたくなかった。

夜中、ときには明け方までだらだらとテレビを見ていた。リアクションが大きい外国人のテレビショッピングだったり、エンドレスのニュースだったり、何かしら番組をやっていた。

別におもしろくて見ていたわけではないが、一つだけ楽しみにしていた番組があった。

朝の5時に放送していたNHK漢詩紀行だ。(たぶん再放送)

 

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漢詩(読み下し文)の朗読と解説で構成された一本5分の番組で、それを二本ずつやっていたと思う。

漢詩なんて高校の国語の授業で習ったきりで、とくに興味があったわけではないけれど、この番組は好きだった。

なんといっても朗読がいい。朗読していたのは中村吉右衛門さんと江守徹さんである。渋い、渋すぎる。

この朗読を聞いて「漢詩って、けっこうカッコいいかも」と思ったりした。

とくに江守さんがあの低くて重みのある声で、漢文独特の言い回し、たとえば「○○として××たり」とか「いずくんぞ□□や」とか読み上げるのが、なにかもうある種の呪文の詠唱のようでもあり、眠くて朦朧としている頭に心地よく響いてくる。

それにナレーションの広瀬修子さん(当時NHKアナウンサー)の穏やかな語り口、少し古めかしい中国の映像、中華風BGM(?)が合わさって、知らず知らずに眠りに落ちていくのだった。(眠くなる番組という言い方は失礼だけど)

そして10時か11時頃に起きて……。

 

まあ、♪そんな時代もあったねと、ってことだ。

いまではすっかり真面目な労働者になって、朝4時半に起きる生活をしている。

さすがにもうあそこまで自堕落な生活をすることはないだろう。(たぶん)

 

それにしても、あの頃はなぜあんなに眠りたくなかったのか。

あるいはずっと起きていれば、眠りさえしなければ、「明日」にはならないと思っていたのかもしれない。

「明日」なんか来なければいいと思っていた。

「明日」が怖かった。

そんな日々だった。

 

 

ときどき何を書いていいかわからなくなる

 

……という状態になることがあって、実はいまがそうなのだ。

「スランプ」と言いたいところだが、スランプというのは調子がいい時があってのことなので、このブログには当てはまらないような気もする。

 

「何を書いていいかわからない」というのは、別の言い方をすれば、「何を書いてもツマラナイ記事しか書けないような気がする」ということでもあり、こっちのほうが気分としては正確かもしれない。

もっとも「それじゃあいままで書いた記事はそんなにオモシロかったのか?」と問われると、「いや、まあ、そういうわけじゃ……へへへ」と曖昧に笑うしかないのだけれど。

 

いわゆるネタがないわけではない。

しかし、書き始めてしばらくすると、なんか違うような気がしてきて筆が止まってしまう。そしてそれ以上言葉を組んだり、文章を練ったりするのが億劫になる。そうやって200字ぐらいで止まっている下書きがいくつもある。

どうもよろしくない。

 

これはひょっとするとトカトントン状態に近いのではないか。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

だとすると、ブログにとっては危険な兆候なのかもしれない。

 

書けないときにどうするか?

端的に言って二つの考え方がある。つまり「無理してまで書かない」「無理してでも書く」である。

しかしまあ、ブログを長く続けたい人はたいてい「無理してでも書く」を選択するのではないかと思う。性格にもよると思うが、「無理してまで書かない」という人はそのままフェイドアウトする可能性が高いような気がする。怠惰な私はなおのこと。

そういうわけで、こういう苦しまぎれの記事を書いているわけです。

こういう気分が一過性のものならいいんだけど……。

 

 

「草とり」

 

ぼんやりラジオを聴いていると、徳冨蘆花「草とり」という随筆の朗読があった。

気になって調べると、「青空文庫」に入っていたのであらためて読んでみる。(以下、引用は青空文庫版。ただし、仮名遣いや表記は適宜変更した)

 

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦(かっせん)である。(中略)二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず。裁制補導は人間の道」で、ここに人間と草の戦闘が開かるるのである。

 

自然は自然のままにいろいろな物を生じさせるが、人間はそれをうまくコントロールしなければならない。

田畑の雑草もそうで、自然のままに放っておくと作物が良く成長しない。だから絶えず雑草を取り除く必要がある。

たかが草取りと馬鹿にしてはいけない。 これも立派な「自然との闘い」なのである。

 

蘆花は後年、「美的百姓」と称して自らも田畑を作る半農生活をした。

「美的百姓」というのは、趣味的というか、アマチュアの農業者といった意味だろうか。

自分でも農作業をするので、上の文章にも実感がこもっている。

 

私も田んぼを持っているが、自分では農業をせずに人に貸している。

だから田んぼのことを心配する必要はないが、家の雑草は自分でなんとかしなければならない。

しかし、いままでにもさんざん書いてきたように、私はこの雑草の始末をサボってばかりいるので、夏場の我が家はえらいことになっている。知らない人が見たら廃墟と思うような有り様だ。

 

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(注)画像はイメージです。ウチではありません。
 

でもなあ……実際、草取り(草刈り)という作業は虚しくなってしまうのだ。

取っても刈っても、次から次へと草はどんどん生えてくる。まったくキリがない。「賽の河原」「シーシュポスの岩」か、これは人に与えられた罰なのではないか? それならいっそのこと自然に任せて、何もせずに草が枯れ果てる冬を待ったほうがいいのではないかと思ってしまう。

しかし、それでも人は草を取らねばならぬ、と蘆花は言う。

 

 そこでまた勇気を振起(ふりおこ)して草をとる。一本また一本。一本除(と)れば一本減るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつつ、心に心田(しんでん)の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕(われら)の心も草だらけである。四囲(あたり)の社会も草だらけである。(中略)然しうっちゃっておけば、我儕は草に埋もれて了(しま)う。そこで草を除る。己(わ)が為に草を除るのだ。生命の為に草を除るのだ。 〔太字は引用者による〕

 

うーん、わかったような、わからないような……。

心の雑草というのは、人生に対する「怠惰」や「自堕落」、「投げやり」や「いいかげん」といった態度のことを言っているのだろうか。

畑の雑草も、心の雑草も、野放図に伸び放題にしておくとやがて人間を呑み込んでしまう。だからこまめに草取りをして、秩序や規律をつくらなければならない……ということか。

こう言われると、草取りも一種の精神性を帯びてきて、何かの修行のように思えなくもない。

 

たとえ徒労であったとしても、草は取らねばならぬ、人生は真面目に生きねばならぬ。

そういうことなのかねえ……。

 

今週のお題「サボる」

 

 

この本(本好きのための童謡)

 

本好きのための童謡です。

童謡「この道」(作詞・北原白秋、作曲・山田耕筰)のメロディにのせて読んでください。(「この道」がピンとこない人は、下の方に曲を引用しているので参照してください)

では、どうぞ。

 

 

この本は いつか読む本

ああ そうだよ

だけどいまは 床に積んでる

 

あの本は いつか見た本

ああ そうだよ

家のどこか 埋もれてるはず

 

この本は いつ買った本

ああ そうだよ

同じ本が 三冊もある

 

あの本は いつか読む本

ああ そうだよ

その「いつか」が 来ることはない 

 

 

(参考)


www.youtube.com

 

  

人まかせ

 

前回、ショーン・バイセル『ブックセラーズ・ダイアリー』という本について書いた。

著者はスコットランド最大の古書店「ザ・ブックショップ」の店主なのだが、その店でちょっとおもしろいサービスを行なっている。

それは「ランダム・ブッククラブ」というもので、年会費59ポンド(1ポンド=約150円として約8850円)を払ってクラブの会員になると毎月1冊古書が送られてくるという企画である。

 

おもしろいのは、会員は送ってもらう本に対して一切リクエストをすることができず、バイセル氏自身がランダムに本を選んで送るというところだ。

ジャンルも選択できないので、普段小説しか読まないような人にノンフィクションが送られてきたり、歴史関係の本しか読まない人に詩集が送られてきたりすることもあると思う。というか、バイセル氏は意図的に送る本のジャンルを散らしているようでもある。

「会員がみな並外れた本好きであることは確かだから、本を読むという行為そのものを楽しむ人に喜ばれそうなものを選ぶことにしている」(p.18)とバイセル氏は言っている。

筋金入りの本読みは、どんなジャンルの本でもそれなりにおもしろく読むことができるということだろうか。

本を選ぶ方と送ってもらう方に信頼関係があるから成立しているとも言える。

 

一年分(12冊)が59ポンドということは一冊あたり約5ポンド、750円ぐらいの古本ということか。このくらいの値段なら、ちょっと「はずれ」でもまあいいかと思える、かな?

ちなみにこのブッククラブには海外からも入会できる。もちろん日本からでもOKだ。(送料は高くつくが)

ちょっと入会してみたいような気もする。英語さえできれば。

 

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話は少し違うが、最近は「選書サービス」をする新刊書店のことをよく耳にする。

これはお客さんから5千円や1万円といったまとまった金額をもらって、書店の店主やスタッフがその人に合いそうな本を選んで送ってくれるというサービスだ。この場合は事前にお客さんにアンケートをとってその好みを知り、それを踏まえて選書するのである。

本好きには名前を知られた店主や店が自分にどういう本を選んでくれるのか、たしかに興味あるところだ。

古本でも、京都の「善行堂」さんが昨年そういう選書サービスを行なって話題になった。いまもまだ募集しているのだろうか?

 

新刊でも古本でも、私はまだそういう選書サービスを頼んだことがない。

前にも書いたけれど、本というのは個人の趣味嗜好が強く出るものなので、自分の目で選ぶのが基本だ。

でも、たまには「他人の目」で選んでもらうのもいいかもしれない。自分の目だけでは見えないものが見えるかもしれないから。

 

人に本を選ぶというのはとてもデリケートな行為だと思う。

たぶん、相手のことを知れば知るほど難しくなるのではないだろうか。むしろ相手の情報が少ない方が適当に選べるような気がする。

選んでもらう方もけっこう気をつかうかもしれない。選んでもらって「うーん、イマイチですね」とは言いにくいし。

いずれにしても、選ぶ方も選んでもらう方も、多少の「はずれ」は覚悟しておかなければならないだろう。

そういう「はずれ」も含めておもしろいと思えるような心の広い本好きなら、一度頼んでみるのもいいと思う。

私も、心と財布に余裕があるときに頼んでみたい。

 

 

スコットランド古本屋日記

 

ショーン・バイセル『ブックセラーズ・ダイアリー スコットランド最大の古書店の一年(矢倉尚子訳、白水社、2021)という本を読んでいる。

 

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2001年のクリスマス。著者が帰省で実家があるウィグタウンスコットランド南西部にある小さな街)に戻ったとき、地元の古書店「ザ・ブックショップ」の店主から「店を買わないか?」と持ちかけられ、ほとんど衝動的に(銀行ローンを組んで)店を買ってしまう。著者が30歳のときだ。

ちなみにウィグタウンはスコットランド政府が募集した「ブックタウン構想」(本と書店による「町おこし」のようなもの)に立候補し、1999年に「ナショナル・ブックタウン」に認定されたところである。

それから十数年、「ザ・ブックショップ」は在庫10万冊を擁するスコットランド最大の古書店になった。

この本は、その「ザ・ブックショップ」の一年(2014年)を綴った日記なのだ。

 

とはいえ、古書店の日常はそんなに変化に富んだものではない。

大きなイベントとしては秋の「ブックフェスティバル」があるくらいで、あとは近隣の街に本の買い取りに行ったり、店で常連客や観光客の相手をしたり、ネット注文の対応をしたりと、いたって地味な毎日だと言っていいだろう。

しかしそんな毎日に彩り(?)を添えるのが、店を訪れる変わった(というか、困った)客たちだ。著者はそんな客たちを皮肉なユーモアをもって描いていて、それがこの日記の基調になっている。

 

この本の中で私がとくに興味深く読んだのは「アマゾソ」との関係について書かれている部分だ。著者の店もアマゾソに出品しているが、内心は複雑である。

 

アマゾソについて好意的なことを言う本屋はまずいないと思うが、悲しいかな、この町でネット販売をしようと思えばアマゾソ以外に店はないのだ。(p.22)

自営業の最大の喜びは、上司の命令に従わなくてすむことだ。ところがアマゾソは「エブリシング・ショップ」運動で快進撃を続けるうちに、ゆっくりと着実に、自営の小売店主にとっての上司になり代わりつつある。(p.29-30)

 

アマゾソはさまざまな基準で出品者(古書店)を評価し、評価が下がれば警告を発して改善を求め、改善されなければアカウントを停止する。だから古書店に強い影響力を持つ。

古書店の方も次第にアマゾソの顔色をうかがわなければならなくなる。それが気に食わなくても、ネット販売をする上でアマゾソは無視できないので従わざるを得ない。背に腹はかえられぬというわけだ。

(もっとも「訳者あとがき」によると、著者は現在ではアマゾソを介した古書の販売をやめ、自前のオンラインショップを立ち上げたという)

ついでに言えば著者は「キンドル」も大嫌いで、中古のキンドルをショットガンで破壊するという過激な動画をSNSにアップしたことがある。

(しかしこの本を含む自分の著作にはキンドル版もあるらしい。背に腹は……)

 

素人の私が言うのもおこがましいが、古書店の未来というのは決して楽観できるものではないだろう。それは決してアマゾソやキンドルのせいばかりではない。

しかし、それでも著者は(紙の)本と、本を読む人を信じているように思う。

 

本日最後のお客--SF小説を何冊か買った若いカップル--は、休みのたびに英国中の古本屋を巡り歩いているのだそうだ。こんな話を聞くと、かすかな希望の光が射した気がする。(p.275-276)

 

輝く未来というわけにはいかないが、まだお先真っ暗ということでもなさそうだ。