何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

角川文庫の横溝正史

 

前回の記事で書いていた通り、横溝正史八つ墓村を読んでいる。

 

 

映像化作品(映画・ドラマ)との違いに気をつけながら読んでいるのだが、原作の方が登場人物が多く、人間関係も複雑だ。さすがに犯人は同じだが(ドラマは少し違う)、主人公と犯人の関係は大きく変わっていて、そのため犯行の動機も少し異なる。その他細かい違いを言えばキリがない。

映画やドラマは決まった時間の中で物語を完結させなければならないので、なんでも原作の通りというわけにはいかないのだろうが、この改変はどうなのか。作者の横溝はどう思っていたのだろう。あまり気にしない人だったのだろうか。

 

ところでこの『八つ墓村』は、角川文庫に収録された最初の横溝作品である。(初版は1971年)

その後他の作品も次々と角川で文庫化され、最終的には90冊ほどが刊行された。そしてこの文庫化に映画化が拍車をかける形でいわゆる「横溝ブーム」が起きた。

しかしブームというのはやがて去るものだ。横溝正史の文庫も次第に書店から消えていき、主要な作品だけを残してその多くが絶版(品切れ?)になっていった。

ところが近年、2021年の「没後40年」と2022年の「生誕120年」という2つの周年を記念して、角川文庫の横溝本が続々と復刊(再編集を含む)されたのである。特設サイトも作られている。

kadobun.jp

これを見ると、現在60冊ほどの横溝本が新刊として買えるようになっている。最盛期の3分の2だ。なので、「横溝正史は読んでみたいけど、古本はちょっと苦手」という人はいまがチャンスである。

 

よく売れた本というのは当然たくさん古本市場に流れてくるので、昔はどこの古本屋に行ってもまとまった量の横溝本があったものだが、さすがに最近では流通量が減っているような気がする。もっともヤフオクなどでは10冊20冊をまとめ売りしたりもしているので、版や装丁にこだわらなければ集めるのはそう難しくはないと思う。

これが例えば初版に限定したり、逆にカバー違いの異装本を全部集めるということになると、難易度は高くなる。特に初期に刊行された文庫の初版には古書としてプレミアもついている。

その中でも最難関なのが『八つ墓村』の初版本である。初版は上の画像のカバー絵と違い、「八つ墓村」の名前の由来になった落武者たちの生首(?)が描かれたおどろおどろしいカバーになっている。

いまヤフオクを覗いたら、ちょうどこの初版本が2点出品されていて、それぞれ開始の値段が3万5000円と4万5000円だった。いやいや、桁を間違ったわけではなくて、本当にこの値段なんですよ。まあ、入札はまだなかったが。以前もっと高い値段で出ているのを見たこともある。状態が良くないものでも1万円はくだらないと思う。

希少なものとはいえ、サイン本でもない中古の文庫本がこの値段になるとは……。いやはやマニアの世界は恐ろしい。

 

 

渥美清の金田一耕助

 

YouTubeに松竹映画のチャンネルがあって、月に一本昔の映画が無料公開(二週間の期間限定)されている。今月は横溝正史『八つ墓』(1977年公開)だったのでさっそく視聴してみた。

なんといっても興味深いのは、金田一耕助渥美清(敬称略、以下同じ)が演じているところだ。あの「寅さん」の渥美清である。なんかぜんぜんイメージできない。ちなみに金田一役を渥美清にするというのは、原作者の横溝の提案だったらしい。

私にとって金田一耕助といえば、映画の石坂浩二とテレビシリーズの古谷一行の2人である。この2人でイメージが固まっている。だから他の人の金田一を見ても、やっぱり何か違う感じがする。

渥美清はいったいどんなふうに金田一を演じているのか。

 

(画像は松竹より借用)

結論から言うと、なんだかとても地味な金田一だった。

まず第一に格好が地味だ。金田一といえば昔の書生のような袴姿が定番だと思うが、渥美版金田一は、ちょっとくたびれた感じのジャケットにズボンという普通の洋装なのである。探偵というより村役場の職員といった風貌だ。(もっともこれは、物語の時代背景が原作の昭和20年代からリアルタイムの昭和50年代に変更されているというのも理由の一つだと思うが)

それから話し方や動作が妙に落ち着いている。石坂浩二古谷一行金田一はどこかそそっかしいような、ちょっと滑稽な言動をするところがあるけれど、渥美版金田一はあまりそういうユーモラスな感じがなく、なんだか真面目な印象だ。

結果、なんとなく控えめで目立たない感じになっている。まあ、探偵としては目立たないほうが正解なのかもしれないが。

たぶん前年に公開されて好評だった石坂版金田一(『犬神家の一族』)と差別化するために、あえてそういう地味な感じの演出にしているのだと思う。金田一が主役ではなく、あくまでも主役をサポートする立ち位置というか、あまり存在感が大きくなりすぎないようにしているのかもしれない。

 

まあ、存在感というかインパクトという意味では(上の画像を見てもわかる通り)要蔵を演じた山﨑努がMVPだろう。

この白塗りの顔で、ときにはうっすら笑みを浮かべ、日本刀と猟銃で淡々と村人を殺戮していくシーンは、子どもの頃に見たらトラウマ確定のレベルだ。「鬼気迫る」とはまさにあんな感じ。

それから終盤の演出も、ミステリーというよりはホラーっぽい感じになっている。

また、前述した時代背景もそうだが、原作との相違も多いようだ。

私は原作は未読なのだが、最近は原作と映像化作品の間のごたごたがなにかと話題になっていることだし、原作のほうも読んでみたくなった。

 

 

ちょっとだけ遠くに行きたい

 

風邪がなかなか治らない。ここ10日ぐらい調子が悪い。

寝込むほど酷くはならないがスッキリ全快するわけでもなく、体がだるくてなんとなく頭が鈍くなっている感じがする。あと鼻水がひどい。

以前は薬を飲んで一晩寝ればたいてい治っていたのだが、どうも抵抗力とか回復力が衰えてきているようだ。これも歳のせいだろうか。

そうこうしているうちに暦も2月になってしまった。ついこの間年が明けたような気がするのだが。

時間が経つのがどんどん早くなっている。これも歳のせいにしてしまおう。

しかし時間が早く過ぎるのも悪いことばかりではない。

この調子なら寒い2月もあっという間に過ぎ去って、気がつけば春3月ということになりそうだ。春だからどうしたというわけでもないが、バイク(原付)通勤としてはとりあえず暖かくなってくれるだけでもありがたい。

 

暖かくなったら少し遠出したいな、という気分になっている。

私がこんな気分になるのはかなり珍しい。

私は生粋の出不精であり、動かざること山の如しというか、尻に根が生えているというか、とにかく用事がなければ極力家から出たくないという人間だ。旅行なんかはもってのほか、日帰りの遠出だってめんどくさい。

そういう私がこんな気分になっているのは、たぶんこの本を読んでいるからだ。

岡崎武志『昨日も今日も古本さんぽ  2015-2022』(書肆盛林堂、2024)

 

 

これは岡崎さんが北は東北青森から南は九州熊本まで古本屋を訪ね歩いた記録である。(関東が多いが)『日本古書通信』に連載されていた文章をまとめたものだ。

岡崎さんもそうだし、この本にもたびたび登場する古本屋ツアー・イン・ジャパン(小山力也)さんもそうだが、とにかくフットワークが軽い。二人とも、古本屋があるなら日本全国津々浦々まで行くといった感じである。

こういう本を読むと、出不精の私でさえどこか知らない街の知らない古本屋に行ってみたくなる。どこかの地方都市の、寂しげな街のうらぶれた商店街で、忘れられたようにひっそり営業している古本屋に入ってみたい。(入るのに少しばかり勇気が要りそう)

本のためだと思うとちょっとだけ活動的になれる。ちょっとだけ、だけど。

旅情と古本はなんとなく相性がいいような気がする。どちらも「《いま》ではない《いつか》、《ここ》ではない《どこか》」を感じさせてくれるからかもしれない。

 

さて、どこに行こうかな。

でも、春になったらやっぱりめんどくさいとか言いだすような気もする。

 

 

タイトル未定

 

前回、こんな記事を書いた。

paperwalker.hatenablog.com

内容を簡単に要約すると、

ブックオフのウルトラセールに行ったけど収獲はイマイチだったこと。

・大石トロンボ『新古書ファイター真吾』という漫画を読んだこと。

・本を探すのは楽しい。

・でもブックオフは最近景気が良くないようだ。

という記事だった。そしてこの記事に私が付けたタイトルが「心は孤独な(本の)狩人」である。これはカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』という小説(村上春樹訳が最近文庫化された。未読だけど)が元ネタなのだが……さて、このタイトルは適切だろうか?

 

 

なぜこんなことを言っているのかというと、「AIタイトルアシスト」を使ってみてブログ記事のタイトルの付け方を改めて考えたからだ。

はてなブログ」ユーザー以外のために説明しておくと、「AIタイトルアシスト」というのは最近「はてなブログ」に追加された機能で、書いた記事の内容からAIがそのタイトルを提案してくれるというすぐれものである。

staff.hatenablog.com

さっそく使ってみたところ、上の記事に対してAIが提案したタイトルが次の3つ。

①ウルトラセールで買い物の成果はいまひとつだった

②本好きが悩むブックオフの現状

③買った本と家の惨状に押しつぶされる

どうだろう? 私はこれを見て「真面目か!?」と思った。③はちょっとおもしろいけど、①と②はストレートすぎる。確かに内容にはあっていてわかりやすいが、おもしろみに欠けるように思う。

 

ブログを始めたばかりの頃、よく初心者向けの「ブログの書き方」みたいな記事を読んでいたのだが、そこで言われていたのが「SEOを意識したタイトルをつけるのが大事」ということだった。つまりGoogleなどの検索エンジンに引っかかりやすいタイトルをつけろということである。

具体的なことは覚えていないが、要するに、記事の内容を的確にわかりやすく表して、さらにキーワードになるような言葉を入れて……みたいなことだったと思う。

なるほどとは思ったけれど、なんだかめんどくさいし、しゃらくさい。

 

SEOを考えれば、私が上の記事に付けたタイトルは0点だろう。具体性がなくフワッとしてて、内容がわかりにくい。

いや、SEOを抜きにしても、元ネタを知らない人は「なんのこっちゃ?」と思うかもしれない。独りよがりの自己満足と言われても仕方ない。

しかし私は、わかりやすさよりもあえて自己満足を優先したいと思う。仕事ではなく趣味でやってるブログなんだから、それくらい好きにしていいと思うのだ。

 

……と、ここまで書いた時点で、今回の記事のタイトルを「AIタイトルアシスト」に尋ねてみたのだが、「タイトル生成に失敗しました」という表示が出てしまった。私の文章はAIにもわかりにくいのだろうか……。

しかし困った。最後はAIにタイトルを作ってもらって、それでオチにしようと思っていたのに。

というわけで、今回の記事のタイトルは未定です。

 

 

心は孤独な(本の)狩人

 

今年もブックオフのウルトラセールに行ってきた。

半日かけて3軒の店舗をまわったものの、成果としてはいまひとつだった。前から狙っていた本は買えたけれどその他の収獲はパッとせず、少しばかり徒労感が残る結果になった。

もっともこの結果は店の品揃えの問題だけではなく、私自身の気分の問題でもある。家の中の惨状を見るにつけ、さすがにこれ以上積読を増やすわけにはいかないという気持ちに(いまさらながら)なっていて、それが心理的なストッパーになって少し買い控える気分になっていたのだ。(買ったけども)

それに加えて、最近ある作家の選集を買おうかどうかと迷っていて、買うんだったら少し出費を抑えておかなければならないという懐事情もある。(買うんだろうけども)

そんな理由であまり積極的に買えなかったのだが、しかしまあ、結果はともかくやっぱりブックハントは楽しい。

 

ブックオフといえば、最近こんな漫画を読んだ。

大石トロンボ『新古書ファイター真吾』皓星社、2023)

 

 

これは新古書店で古本を買うのが趣味(生きがい?)という青年が主人公の「古本あるある」漫画である。

新古書店というのは、従来の古書店と違って「新刊書店のような広くて明るい店内」「最近の本が中心の品揃え」といった特徴を持つ古書店のことで、まあ簡単に言えばブックオフのような店のことだ。従来型の古書店に馴染みがない人は、古書店ブックオフと思っているかもしれない。

この漫画の中でも、ブックオフ(作中では「ブックエフ」)を主戦場にしている主人公が普通の古書店に対して敷居が高くて入れないというエピソードがあって、私も「ああ、それな! わかるわかる」と思った。ブックオフに慣れてしまうと、確かにそんな感じになる。

ブックオフ好きには共感できる漫画だ。

 

ブックオフの一番の魅力はなんといっても均一本の多さだろう。従来の古書店も店頭に均一本を置いているところが多いが、ブックオフの量は圧倒的だ。(もちろん質はそれなりだが)

その大量の均一本を丹念に見て、そこに探していた本やおもしろそうな本を発見するという過程には「宝探し」の楽しみがある。いや「宝探し」というより、何度も川底をさらって砂の中から砂金を探す地道な「砂金取り」のイメージの方が近いかもしれない。いずれにしてもそこには本を探す楽しみがある。

ただ欲しい本を手に入れるだけならネットで検索したほうが早くて合理的だが、本を探す楽しみはやはり実店舗に足を運ばなければ味わえない。

 

しかしそんなブックオフも最近ではあまり景気のいい話を聞かない。

ネット販売の方はわからないが、店舗の方は売り上げが減少していて、閉店も増えているという。

店の中も本のスペースが縮小されて、トレーディングカードやフィギュアなどの売り場が広がっていく傾向にある。それで売り上げが増えればいいのだが、本好きとしてはちょっと複雑なところだ。

いまでは本好きに欠かせないインフラ(?)なので、なくなってもらっては困る。

まあ私にできることといえば、たくさん本を買うことぐらいだけれど。(結局それか)

今年もこんな感じで。

 

 

2023年のブ活をふりかえる

 

ようやく地獄の繁忙期が終わった。

地獄というよりも、社畜という名の「畜生道」だったような気もするが、とりあえずこれで一息つける。

いやー今年はキツかった。疲れ果てた。この期間だけで体重が2キロぐらい落ちてしまった。甘い物ばっかり飲み食いしていたのに。

毎年この時期には何回か「こんな仕事辞めてやる」と思うのだけど、根が楽天的なのか、それとも単に学習能力がないのか、年が明けると「まあいいか」という気になってしまう。でも来年はどうだろう。「まあいいか」と思えるだろうか。

 

 

そんなわけでブログもすっかりご無沙汰になってしまった。

書く方はもちろんだが、読む方もなんだか億劫になっていた。

時間がまったくなかったわけではない。休みはちゃんとあったのだけど、文字を読む気になれなかったのだ。(当然本もほとんど読めなかった)

休日は10時ぐらいまで寝ていて、それから朝とも昼ともつかないご飯を食べて、午後からはずっと布団の中で YouTube を見ているような生活だった。

それを本当に楽しいと思っているのならいいのだけれど、楽しいのかつまらないのかさえはっきりしないまま、脳が痺れたようにただ惰性で動画を見ているうちに日が暮れていく。そんな日々だった。

「痴呆のような幸福だ」梶井基次郎「冬の日」)

 

さて、今年一年のブ活(ブログ活動)をふりかえってみるに、まあ低調だったと言わざるを得ない。

一番わかりやすいのが記事数で、去年の半分しかない。数書きゃいいというわけではないと思うが、それにしたってなあ。

「書きたい」という気持ちと「めんどくさい」を秤にかけると、だんだん「めんどくさい」が勝つようになってきた。気分にムラがある。ある程度規則的に更新したほうがいいと思うのだけど、なかなかうまくいかない。

5年近くやってきたけれど、結局のところ、生活にうまくブログが馴染んでいないのではないかと思う。どうしたものか。

内容も含めて、もうちょっとブログの書き方を考えたほうがいいのかもしれない。連載漫画でも低迷したらテコ入れとか路線変更とかあるし。(8割がた失敗するのだが)

 

まあ、それはそれとして……。

今年一年、このブログを読んでくれたみなさんに感謝を。どれか一つの記事でも、一つの文章でも、誰かの心にまで届いてくれればと思う。

そしておもしろい記事を読ませてくれたみなさんにも感謝を。

ありがとうございました。

 

それではみなさん良いお年を。そして来年もよろしく。

 

 

絵葉書を読む(その14) 愛国婦人会

 

『絵葉書を読む』第14回。今回の絵葉書はこちら。

「愛国婦人会」が発行した絵葉書だ。

 

 

「愛国婦人会」は、佐賀県出身の社会活動家である奥村五百子が1901年(明治34年)に創立した団体である。

その主な活動目的は戦没将士の遺族や廃兵の救護・支援だったが、徐々に活動の幅が広がってさまざまな社会事業を行うようになる。

当初はいわゆる上流階級の婦人が会員の多くを占めたが、その後広範囲に会員が増加し、1907年(明治40年)には70万人ほどだった会員数が、日中戦争が始まった1937年(昭和12年)の時点では311万人を超える規模の団体になった。

しかし1941年(昭和16年)の定例閣議で「大日本連合婦人会」「大日本国防婦人会」との統合が決定され、翌年に「大日本婦人会」として統合・再編された。(以上、Wikipediaを参照)

 

上の絵葉書はその「愛国婦人会」が発行したものだ。

刈穂を背負う女性の絵と、左上に稲刈りをする女性たちの写真があって、「せめて家族に感謝の奉仕」という言葉が添えられている。また葉書の表には「写真は出征勇士留守宅の稲刈にいそしむ会員」という説明がある。

要するにこれは、男手を兵隊に取られた農家の手伝いをしているボランティア活動の様子を紹介した絵葉書なのだ。

 

消印は「瀧野川」(東京)で、日付は「昭和14年9月」である。

宛名人は中支(中部支那)派遣部隊の某氏だが、差出人の名前はなく、その代わりに「愛国婦人会瀧野川区分会」というスタンプが押されている。

つまりこれは個人的な手紙ではなく、「愛国婦人会」が活動の一環として地区の出征兵士に送った慰問の葉書なのである。

文面は以下の通り。(旧字・旧仮名遣いは現代的に改めた)

 

お元気でお国の為にご奮闘あそばしていらっしゃる由、共にお喜び申上げます。ラジオや新聞に依りますと、中支方面はすこぶる不順の天候の由、何卒(なにとぞ)御身充分においとい下さいませ。東京は暑い暑いと云っている中、も早やほのかに秋風が吹き初めました。私どもも銃後の護りを没我的精神でやっています。何卒ご安心下さいませ。

御武運長久をお祈り申上げます。

 

意地の悪い言い方をすれば、当たり障りのない、誰に対しても使えるような挨拶の葉書である。たいして意味のある内容とは言えない。

しかしそんな葉書でも、故郷を遠く離れた戦地でもらったら嬉しく思うのではないだろうか。

この葉書には二つ折りにした跡がついている。

もしかしたらこの葉書をもらった人は、それを二つに折って兵隊服のポケットに入れ、しばらくお守り代わりに持っていたのかもしれない……。

そんなことを想像してしまう。