何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「往年」にはまだ早い

 

先日、新聞を見ていると、ちょっと気になる出版広告を見かけた。

双葉文庫の3月の新刊の広告なのだが、この中の大石大『恋の謎解きはヒット曲にのせて』という小説が気になったのである。

いや、その、正確に言えば、気になったのはその作者や作品そのものではなくて、そこに添えられた紹介文なのだ。それはこんな文章だった。

恋愛は人類最大のミステリー? 宇多田ヒカル星野源などの往年のヒットソングにのせて、失恋の謎を解く連作ミステリー小説。

私が気になったのは、この中の「往年」という言葉だ。宇多田ヒカル星野源の曲を「往年のヒットソング」というのは、ちょっと早過ぎやしないか?

 

その小説を読んでいないので、実際どの曲のことを言っているのかわからないが、宇多田ヒカルのメジャーデビューが1998年なので、当然それ以降の曲だろう。星野源にいたっては、ソロデビューが2010年である。ついこの間じゃないか。

そういう歌手や曲に対して「往年」という言葉を使うのは、なにか違和感を覚えるのである。「往年」というのは、もうちょっと昔の人や物事に使う言葉ではないのか。

「往年」という言葉には、どこか現役ではないような、第一線から退いているような響きがあると思うのだが、どうだろう?

 

もっとも、辞書によれば「往年」というのは単に〈過ぎ去った年〉とか〈昔〉という意味なので、何年前からが「往年」というような定義があるわけではない。5年前でも50年前でも「往年」は「往年」だ。

だから上に引用した紹介文はぜんぜん間違っていないし、私も文句を言っているわけではない。ただの違和感だ。

年齢的な違いもあるのだろう。50代の私の「往年」と30代の人の「往年」では、イメージするものが違ってくるのも当然だ。上の紹介文を書いたのはけっこう若い人なのかもしれない。

私の場合、20年ぐらい前ならまだ「現在」の範囲内のような気がする。

まあ、日頃古本ばっかり買ったり読んだりしているので、私の時間感覚が一般とずれている可能性もあるけれど。