何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

本も二度目なら、少しは上手に……

 

この頃20代や30代の時に読んだ小説を読み返すことが多くなってきた。

私の旧式の脳が新しいものを受け入れられなくなっているのかもしれない。

しかし再読には初読にない楽しみもある。初読は新しい友人を得るようなものだが、再読は疎遠になっていた旧友に再会するようなものだ。そこでは今と昔と、二重の時間が流れる。

 

最近再読した本に、京極夏彦『姑獲鳥(うぶめ)の夏』講談社文庫版、1998 / 講談社ノベルス版、1994)がある。

 

 

刊行は1994年だが、リアルタイムで読んだのではなく、3、4年後に読んだような気がする。

その時はすでにこの古本屋にして神主、さらに陰陽師でもある京極堂を主人公にしたシリーズが3冊ぐらい出ていたと思う。どれも煉瓦のように分厚い本だったが、当時は無職でブラブラしていた時期なので時間は腐るほどあった。

夢中で読んで、その衒学的な小説世界に圧倒されたのを覚えている。

 

当時も今も、私はあまりミステリーを読まないので、トリックがどうこうといった批評がましいことは言えないのだが、そんなミステリー素人の私でさえ、この作品で使われているトリックは反則というか、掟破りなのではないかと思った。

そもそもこれをトリックと言っていいのかどうか。

いや、人間の知覚や認識の「盲点」を突くのがトリックというものなら、これはやっぱりトリックなのか。

あるいはトリックを無効化するアンチトリックとか?

何を言っているのか自分でもわからなくなってきた。ぜんぜん感想になってない。

とにかくこんな物騒な(?)小説がデビュー作というのだから、恐れ入谷の鬼子母神である。(作中に出てくるのは雑司ヶ谷鬼子母神だが)

 

ところで、物語の本筋とはまったく関係ないのだが、作品の冒頭で「京極堂」がこんなことを言っている。(前回読んだ時には気づかなかった)

 

だがね君ーー面白い、面白くないという君の尺度にもよるが、だいたいこの世に面白くない本などはない。どんな本でも面白いのだ。だから読んだことがない本は大抵面白いが、一度読んだ本はそれより少し面白がるのに手間がかかるという、ただそれだけのことだ。(文庫版、p.15、太字は引用者による)

 

「この世に面白くない本などはない」とは、本好きなら一度は言ってみたい言葉ではないだろうか。私はまだまだ精進が足りないので、そういう境地(?)には遠いけれど。

 

一般的にミステリーは再読に向かないと言われている。最初に読んだ時点で犯人やトリックが明かされる、つまりネタバレしてしまっているからだ。

しかしそんなことはない。物語を追うことだけが読むことではない。

忘れていたことを思い出したり、前回気にならなかった細部が気になったり、気づかなかった意味に気づいたり、少しばかり「面白がるのに手間がかかる」かもしれないが、再読は初読とは違った読書体験になるはずだ。

 

うん、さすが「京極堂」、いいことを言う。

もっともこの後、だからどれでもいいから店にある本を買え、という話になるのだが。