何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

《日本の文学》第1巻『坪内逍遥・二葉亭四迷・幸田露伴』(その1)

 

以前予告していたように、中央公論社が昭和39年から45年にかけて刊行した日本文学全集《日本の文学》を読み始めた。 

 

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第1巻(第71回配本、昭和45年)には、坪内逍遥二葉亭四迷幸田露伴の3人の作品が収録されている。(ちなみに「解説」は伊藤整

 

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最初の坪内逍遥一読三嘆 当世書生気質(1885-6・明治18-9年)が収録されている。

さっそく読み始めた……のは、実は5月の初め頃。読み終わるのに2ヶ月近くもかかってしまった。

『書生気質(かたぎ)』は二段組で170頁ほど、岩波文庫版なら(注釈や解説を含めて)320頁ほどの小説で、それほど長いというわけではない。いくら私が遅読で、ほかの本と併読していたからといっても、時間がかかり過ぎている。それは何故か。

文章が古くて読みにくかったからだ。

どういう文章か、試しに本編の最初の方を引用してみよう。( )は、原文ではルビである。

 

さまざまに。移れば換る浮世かな。幕府さかえし時勢(ころおい)には。武士のみ時に大江戸の。都もいつか東京と。名もあらたまの年ごとに。開けゆく世の余沢(かけ)なれや。貴賤上下の差別(けじめ)もなく。才(さえ)あるものは用いられ。名を挙げ身さえたちまちに。黒塗り馬車にのり売りの。息子も髭を貯うれば。(以下略)

 

と、こんな感じである。

逍遥は江戸時代の滝沢馬琴式亭三馬、明治初期の仮名垣魯文などを愛読していて、『書生気質』の文章もそういった先達の影響の下にあるらしい。

というか、ほんの20年ほど前はまだ江戸時代だったわけで、それも当然か。

「明治」という新時代になったからといって、何もかもが急に変わるわけではない。

しかしその一方で、書生同士の会話では変な英語が使われたりする。(太字は引用者による)

 

今まで持ッていたプレジュア〔快楽(たのしみ)〕を奪われた上に。ホウプ〔将来(すえ)のたのしみ〕までなくなってしまッちゃア。人間はとても。立ち行くもんじゃアない。かの聖賢にあらざるよりは。そりゃア。インポッシブル〔難行(だめ)〕だ

 

当時の書生が本当にこんなルー大柴みたいな話し方していたかどうかは知らないが、とにかく、古い言葉も新しい言葉もごっちゃになった混沌とした雰囲気がある。

 

さて、小説の内容だが、主要な物語は書生・小町田と芸妓・田の次(お芳)の恋物語と、書生・守山の生き別れになった妹の物語の二つである。

しかしその物語以上に、彼らを含む数人の書生の生態が興味深く描かれている。

彼らはたいてい金に困っているくせに、牛鍋屋や寄席に行ったり、遊郭にも行く。ちゃんと勉強している奴もいるが、放蕩しすぎてドロップアウト寸前の奴もいる。いろいろな奴がいるが、総じてみんな活気があるというか、世の中に対してちょっと偉そうな感じがする。

書生というのは、社会的にはまだ何者でもなく、これから何者かになれるかどうかもわからない存在だ。しかし、彼らには「いまだ何者でもないということは、これから何者にでもなれるということだ。吾輩は何者かになる。なれる!」という、前向きなエネルギー(だけ)があるように思う。(この「吾輩」という一人称も書生の特徴)

そういう前向きなエネルギーみたいなものが、明治という時代には必要だったのかもしれない。

 

物語の結末はかなり「ご都合主義」の大団円だけど、そこはまあご愛嬌。

 

この『書生気質』を読んだら、明治の文学はもちろん、自分が江戸時代の文学についてほとんどなにも知らないということがよくわかった。いっそこれから時代を遡って近世文学を読んでみようかとも思ったが、予定通り時代を下っていこう。

次は(少し寄り道をした後で)二葉亭四迷を読む。