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何を読んでも何かを思いだす

本は積んでも人生詰むな。

素人・玄人

 

尾崎一雄荻原魚雷編)『新編 閑な老人』(中公文庫、2022)を読んでいる。

 

 

いままで尾崎一雄を読んだことはなかったが(でも本は何冊か持っている、はず)、荻原魚雷さんが好きなので読んでみた。

すると「退職の願い」(1964)という短編にこんな文章を見つけた。

 

 つくづく思うことは、自分が、一個の人間としても、社会人としても、いかに素人か、ということだ。六十四歳になってそんなことに気がついた。(p.42-43)

 

そう、そうなんだと、首が折れそうになるほど何度も頷いてしまった。私は53歳だけど、本当にそういう感じがする。

尾崎は続けてこう書く。

 

 もっとも、ここで云う素人に対する玄人というのが、どういうものかは、よく判らぬ。判らぬけれども、そんなものがあるのだろうと思わぬわけにはいかない。ーー未熟もの、練達者という言葉も浮かぶが、私の感ずる素人、玄人は、それと似ていながら、どこかで少し違うようだ。(p.43)

 

私にも尾崎が言うところの「素人・玄人」が具体的にどういうことなのかはわからない。わからないけれども、なぜかこの言葉がしっくりくる。

 

ここから先は私が考える人生の素人・玄人についてである。(尾崎が言うそれとは少し違うかもしれないが)

自分で言うのもおかしいが、どうも私は人間としてバランスが悪いようだ。

さっきも書いたように私は53歳になるけれど、「世間並」の53歳に比べて知らないことが多いし、できないことも多いような気がする。こう書くと、「人はそれぞれでいいのだから、そんな『世間並』や『人並』なんていうのは幻想にすぎない、気にするな!」という人もいるかもしれないが、しかしここまで生きてきた実感として「世間並」や「人並」という基準はやはりどうしたって世の中に存在している。

世の中で生きていくことを「世渡り」というけれど、私にとってそれは「綱渡り」みたいなものだ。

細い綱の上を一歩一歩バランスをとりながら、ゆっくり、慎重に、おっかなびっくり進んでいく。そんな感じでなんとか世の中を渡っている。(でもときどき落っこちる)

ところがほかの人は、同じ綱の上のはずなのに、普通の道でも歩くようにしっかりした足取りで平気でずんずん進んでいる(ように見える)。

世の中にある「制度」「しきたり」「人づきあい」その他諸々、そんな複雑なものを苦もなく難なく “そつ” なくこなしている(ように見える)。自分が世の中でしなければならないことがちゃんとわかっていて、実際にそれができる(ように見える)。

私に言わせれば、そういう人が人生の「玄人」なのである。

 

もちろんみんな初めから「玄人」だったわけではない。世の中に出た時はみんな「素人」だ。それが経験を積み重ねて「玄人」になっていく。しかしなかには、いたずらに馬齢を重ねるだけで、そうはなれない者もいる。

どうがんばっても、私はそんな「玄人」にはなれそうもない。

私はいつまでたっても危なっかしい人生の「素人」である。