何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

めでたくもあり、めでたくもなし

 

先月のことになるが、誕生日を迎えて55歳になった。

といっても、この歳になるともう「うれしい」とか「めでたい」という気持ちもあまりない。ただぼんやりと「思えば遠くに来たもんだ」という感慨があるだけである。

なので、特別なことはなにもしない。唯一やったことといえば、セルフ誕生日プレゼントとして前から気になっていた漫画の全巻セット(古本)を買ったぐらいだ。

相も変わらずそんなことばかりやっている。歳はとっても成長はしない。

 

 

誕生日になると必ず思い出す言葉がある。

  門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

これは一休宗純が作ったとされる和歌である。あの頓知でお馴染みの一休さんだ。(ちなみに「門松は」の部分が「正月は」や「元日は」になっているものもある)

私と同世代の人なら、子どもの頃にアニメの『一休さん』を見ていたという人も多いだろう。上の和歌もそのアニメの中で知ったものだ。

昔はいわゆる「数え年」だったから、いまのように一人一人が誕生日を迎えて一つ歳をとるのではなく、新年になったら皆がそろって歳をとっていた。そういう意味でも元日はおめでたい日だったのだ。

しかし一つ歳をとるということは、一歩死に近づいたということでもある。そう考えると単純にめでたいとも言えなくなる。

また一休には、元日に髑髏(しゃれこうべ)を乗せた杖をつきながら町を歩いたという逸話も残されている。せっかく皆がおめでたい気分に浸っているのに、そこに冷や水を浴びせるのである。そんなに浮かれているけれど、死はお前のすぐそばにあるのだぞ、と。

もちろん一休さんだってただの嫌がらせや天邪鬼でそんなことをやったわけではないだろう。

西洋で言うところの「メメント・モリ」(死を忘れるな)みたいな感じだろうか。

 

「死と隣り合わせに生きる」などと言うと、なにか危険な職業に就いている特殊な人の人生のように思ってしまうが、実はそうではない。私たちは誰もが死と隣り合わせに生きている。もちろん普段はそんなことを意識して生きてはいない。あるいは意識しないようにして生きている。

しかしいつかは死と向き合わなければならなくなる。

ふとなにかの拍子に、自分の背後に影のように貼り付いている死に気づく。そして不安になる。普段意識しない分、よけいに不安になる。目をそむければ不安はますます大きくなる。

もちろん普段から死を意識していても、不安になることに変わりはないだろう。ただ、その不安が際限なく大きくならないように、適切な大きさで維持することはできるかもしれない。

死の不安に呑み込まれないように、良く生きるために死を思う。そういうことなんじゃないかと思う。

 

なんだかたいそうな話になってしまったが、私だってそんな常日頃から死を意識して生きているわけではない。武士じゃあるまいし。

だから年に一度の誕生日ぐらい、自分の死に思いをめぐらせてみるのもいいかもしれない。

もっとも、現実的には死よりも前に「老い」のほうが切実な問題だ。腰は痛いし、目も霞んできている。

やれやれ、めでたくもあり、めでたくもなし。