志村けんさんが亡くなった。
新型コロナで陽性反応が出ていたことは知っていたが、まさか亡くなるとは考えてもいなかった。
70歳という年齢を考えれば、ありえないことではなかったはずなのだが、想像できなかった。
新型コロナをめぐる問題がどんどん大きくなっていっても、正直なところ、私にはまったく危機感というものがなかった。
自分が感染していないのはもちろんだが、身近に感染した人の話も聞かないし、子どもがいないので学校が休みになっても関係がない。テレワークやリモートワークが話題になっても、(職種的に)私の仕事はなにも変わらず、普通にバイクで通勤している。「不要不急」の外出はひかえろと言われても、もともとが出不精で、「必要緊急」の外出さえしたくないのだから、これも問題ない。
要するに、コロナ以前とほとんど変わらない生活なのだ。
志村さんの死は、そんな私ののんきな「日常感覚」を少しだけ揺さぶった。
ここ数年はほとんどテレビを見ないので、ニュースやワイドショーなどで必要以上に不安をあおられるということもないのだが、ことコロナに関して言えば、必要最低限の情報と危機感が足りなかったのではないかと思った。
有名人が亡くなったから危機感を覚えるというのも、考えてみればおかしな話だが、実感なのだからしょうがない。
私が小学生の頃、土曜8時のテレビといえば『8時だョ! 全員集合』に決まっていた。
「子どもに見せたくない番組」No.1などと言われていたが、うちでは家族そろって楽しみにしていた。(『暴れん坊将軍』が始まるまでは……)
そのコントの中で私が好きだったのは「志村、後ろー!」というギャグ(?)で、幽霊コントなどでよく使われた。
志村さんが客席の方を向いて立っている。背後のセットの陰から幽霊がスーッと現れる。志村さんは気づかない。すると客席の子どもたちが大声で「志村、後ろー!(幽霊がいるぞ)」と叫ぶ。志村さんが振り返る。しかし、幽霊が一瞬早く隠れたので、なんだ気のせいかとまた前を向く。もう一度この流れを繰り返す。そして3回目、今度は振り返るタイミングがずれて志村さんと幽霊の顔が合い、「うわぁぁぁぁ!」……爆笑。
単純といえば単純だけど、舞台の上と客席、そしてテレビの前が幸福な一体感に包まれたような気がした。
しかしいま、「志村、後ろー!」と叫んでも、その声はもう志村さんには届かない。志村さんは、その背後にあった〈死〉にのみこまれてしまった。
その〈死〉はもちろん私たち一人ひとりの背後にもある。私たちはそれを知っている。知ってはいるけれど、ほとんどの人はそれを実感することなく日常を生きている。
ときどき何かのきっかけで「後ろー!」と言われたような気がして振り返る。しかしそこに〈死〉はなく、なんだ気のせいかとまた日常に戻る。
そしてある時、たまたまタイミングがずれて、振り返ったときに〈死〉と顔が合う……。
志村さんの死によって私が危機感を覚えたというのは、
「後ろを見ろ。わかってるな? お前の後ろにも〈死〉があるということを」
と言われたような気がしたからかもしれない。
もちろんこれは私が勝手にそう感じただけで、志村さん自身は、こんなカビ臭い教訓をたれるような人ではなかったかもしれないが。
志村さん。長い間楽しい時間をありがとうございました。
こころからご冥福をお祈りします。