何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

いまそこにある危機

 

ついにというか、とうとうというか、私の職場でもコロナの感染者がでた。

昨日、久しぶりに隣の市の大型書店に行って至福の時間を過ごしていたら、ポケットの携帯が鳴った。会社からだった。

会社に限らず、日頃私に電話がかかってくることはめったになくて、かかってきた時はたいてい悪い知らせか面倒な出来事なので、緊張して電話に出るとそういうことだった。

 

同じ職場といっても、感染した人とはそれほど近くで仕事をしているわけではなく、会話することもあまりない。

電話では、最近の接触の有無や、現在の健康状態を訊かれたが、とくに異常なことはない。

仕事がどうなるかはわからないが、そう何日も停滞することはないようだ。

しかし、ここにきて急にコロナが身近なものに感じられてきた。

 

f:id:paperwalker:20210811092025j:plain


なにをいまさら、と思われるかもしれないが、いままではまだどこか遠いところの出来事のような気がしていたのだ。

毎日感染者が増え続けていることは知っている。私が住んでいる市でもそうだ。

私だって、マスクはもちろん、手洗いやうがいなどもちゃんとやってきた。

しかし、頭では理解していても、肌身に感じるというほどではなかった。

実際に身の回りで感染者が出て、すぐそこまで危機が迫って初めて危機感らしきものを感じているような気がする。

いや、どうだろう?

どこまで深刻に考えているのか、自分でもちょっと怪しい。

 

だいたい、コロナに限らず、私には危機感というものが乏しい。いや、乏しいというより、欠落しているのではないかと思うことがある。

危機に対して、事前に対策を講じるということができない。

危機が目の前に迫り、その魔手がそっと顔に触れてから「しまった!」と思うタイプだ。一般的にはそれを手遅れという。

それは想像力が欠けているからそうなのか、それとも信じられないほど怠惰だからなのか、たぶん両方だと思うけれど、とにかくそうなのだ。「楽観」の度が過ぎるというか。

 

いや、こう書くと私がまるで馬鹿みたいなので少し補足しておくと、私の「楽観」は、超高密度の「悲観」が自重に耐えかねて「虚無」になり、さらにその「虚無」を突き抜けて「楽観」に至ったという代物なのだ。

つまり「ホワイトホール」的な?

あるいは「地面を掘っていったらブラジルに出た」的な?

やっぱり馬鹿なのか。

 

そういうわけで、いまごろになって自治体から来ていた「ワクチン接種のお知らせ」を読んでいる次第です。