何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

友だちの時間

 

鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』(全5巻、角川書店、2018 - 21)を読んだ。

 

 

昨年完結した漫画だが、今年映画化(実写)されたのでそれに合わせて増刷されたらしく、近所の書店の「メディア化コーナー」に全巻並んでいた。

ぜんぜん知らない漫画だったけど、なんとなくおもしろそうな気がして1巻を買って帰り、翌日残りの巻を買って結局最後まで読んだ。

おもしろい! という感じの漫画ではなくて、うまく言えないが、ちょっととらえどころがないような、でも気になる漫画だった。(以下、いわゆるネタバレを含みます)

 

市野井さんは今年75歳になる女性で、自宅で書道教室をしながら一人で暮らしている。

あるとき、なにげなく入った書店でなんとなく一冊の漫画を買う。その漫画(BL)をきっかけに、書店でアルバイトをしている高校生・佐山うらら(17歳)と知り合いになる。

うららはちょっと人見知り気味の女の子で、あまり同年代の友だちがいない。今風の言葉で言えば「陰キャ」ということになるのか。趣味は漫画で、とくにBLが好きなのだが、そういう話で盛り上がれる友だちもいない。

そんなうららと市野井さんは漫画の話で意気投合し、たびたび会って話をするようになる。市野井さんの家で「会合」したり、一緒に同人誌の即売会に行ったり、ついには二人でコミティア(大規模な同人誌の即売会)に出店したり……。

 

市野井さんは好奇心旺盛で行動力がある。引っ込み思案なうららの背中を押してあげたり、手を引いてやったりする。精神が若々しい。

しかし、日々の生活の中では自分の「老い」を感じることも多くなっている。そういうところがちゃんと描かれているのがいい。75歳には75歳の世界がある。

うららは進路のことで悩んだり、幼なじみの男の子が彼女と一緒に歩いているところを見て複雑な気持ちになったり、やっぱり17歳の女の子らしいところもある。17歳には17歳の世界がある。

普通ならたぶん交わることのない二つの人生が、(同じものを)「好き」という気持ちを共有することで交わっていく。

 

二人の関係をなんと言えばいいのだろう。

市野井さんは他の人にうららのことを説明するときに「友だち」という言葉を使う。たしかに他に説明のしようがない。

75歳と17歳の友情。

 

考えてみれば「友だち」という関係はけっこう曖昧なものだ。「家族」や「恋人」のようにはっきりとした《枠》があるわけではない。いつから「友だち」になったのかもはっきりしないことの方が多い。

話はちょっと逸れるけど、以前見たアニメで、友だちの作り方がわからないという女の子が出てくるのがあって、友だちになった証拠に「誓約書」を書いてくれと言って相手の子に呆れられるという場面があった。馬鹿馬鹿しいようだが、その子の不安もわからなくはない。

そのくらい「友だち」というのは曖昧で形のはっきりしない関係なのかもしれない。

 

「友だち」の始まりは曖昧だけど、終わりもまた曖昧である。

はっきりと絶交するような終わり方もあるかもしれないが、たいていはいつのまにか疎遠になってそれっきりということが多いのではないだろうか。

物語の最後、市野井さんは娘夫婦が暮らす海外に長期の旅行に行く。ただの旅行ではなく、「お試し同居」ということなので、そのままそこに移住するかもしれない。

いまの時代、海外に居ても簡単に連絡を取り合うことはできるけれど、実際に会うことはやっぱり難しい。

ひょっとしたら市野井さんとうららはもう会えないのかもしれない。(年齢もあるし)

お互いの新生活に忙しく、だんだん疎遠になってしまうのかもしれない。

 

しかし、たとえ疎遠になったとしても、二人が同じものに夢中になって、語り、笑い、一緒にいた時間は、消えてなくなるわけではない。

その時間はそれぞれの人生にたしかに刻まれている。

誰かとそんな時間が持てたことは幸せである。

友だちがいない私が言っても、あまり説得力はないけれど。