何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

本好きのための替え歌

 

本好きのための替え歌をつくってみました。

元歌は、植木等「スーダラ節」(作詞・青島幸男、作曲・荻原哲晶)です。

時間と心に余裕がある人はおつきあいください。

(下の囲みの中は元の詞。記事の一番下に楽曲を引用しているので、曲がピンとこない人は参考にしてください)

では、どうぞ。

 

チョイト一冊のつもりで読んで

いつの間にやら徹夜明け

気がつきゃ会社のデスクでヨダレ

これじゃ身体にいいわきゃないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

チョイト一杯のつもりで飲んで

いつの間にやらハシゴ酒

気がつきゃホームのベンチでゴロ寝

これじゃ身体にいいわきゃないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

 

ねらった「ヤフオク」ライバル出現

頭かっと来て高値で落とす

気がつきゃ

ボーナスァすっからかんのカラカラ

本で貯金をした奴ぁないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

ねらった大穴見事にはずれ

頭かっと来て最終レース

気がつきゃ

ボーナスァすっからかんのカラカラ

馬で金もうけした奴ぁないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

 

一目見た本にたちまちホレて

よせばいいのにすぐ手を出して

すぐ読むつもりがチョイと積みあげて

俺がそんなに読める訳ゃないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

一目見た娘にたちまちホレて

よせばいいのにすぐ手を出して 

ダマしたつもりがチョイとだまされた

俺がそんなにもてる訳ゃないよ

分かっちゃいるけどやめられねぇ

 

 アホレ スイスイスーダララッタ スラスラスイスイスイ……

 


スーダラ節 - 植木等【Pioneer PL-50LⅡ & Ortofon CG-25DI】

 

 

第3回「あいうえお作詩」に挑戦してみる

 

またまた「あいうえお作詩」をやってみた。

 

説明しよう!

「あいうえお作詩」とは、「あ」「い」「う」「え」「お」の各文字が行の頭になるように詩を作っていくという、一種の言葉遊びだ。私はこれを五七五七七の短歌風に作った。

例として、前回(第2回)のア行の詩を引用すると、

  愛してる

  言えば言うほど

  嘘になる

  エデンの園

  追われた二人は

というもの。各行の頭を縦読みすると「あいうえお」になる。

ほかのも見てみたいという奇特な方は、こちらをどうぞ。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

まあ、一応「詩」とは言っているけれど、なんだかよくわからない言葉の塊だ。

ご用とお急ぎでなければ、しばらくおつきあいください。

それではいってみよう。

 

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あの人が

いつも決まって

歌うのは

襟裳岬』と

『おふくろさん』ね

 

片道の

切符を持って

故郷(くに)を出て

結局俺は

こんなところで

 

三年間

知ってる? あたし

好きだった

先生のこと

それじゃ、さよなら

 

魂は

地上の生も

つかのまに

天にかえって

鳥になる 朝

 

仲のいい

兄さんはいま

沼津市

「姉さん」になり

ノゾミと名のる

 

傍目には

人もうらやむ

夫婦でも

別居してるの

本田さんとこ

 

迷い人

みたいに生きてる

昔から

迷路のなかを

もどってはすすみ

 

安酒に

ゆるりゆるりと

酔いごこち

 

ラオスから

陸路を通って

ルーマニア

例の荷物は

ロシアのホテルで

 

 

続・納豆の話

 

前回に続き納豆の話を。

以前、古本屋でこんな本を買った。

野瀬泰申『納豆に砂糖を入れますか?-ニッポン食文化の境界線-新潮文庫、2013)

 

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タイトルを見て、「いやいやいや、それはないだろ!?」と思って買ったのだ。

 

この本の成り立ちは少し変わっている。

もともとは著者が「日本経済新聞」のホームページ「NIKKEI  NET」に連載していたものなのだが、その連載は、最初に著者がテーマを挙げて全国の読者に意見を募り、それを著者がまとめるという形をとっている。

こういう食べ物の話、特に食べ方の地域間ギャップ(著者はこれを「食の方言」と呼んでいる)のような話は、ついつい自分も意見を言ってみたくなるものだ。

「自分の地方ではこうだ」とか、「私はこうだけど、夫の実家はちがう」とか、お互いに意見を出すと話が盛り上がる。

 

それで、タイトルにもなっている「納豆に砂糖を入れるかどうか」という問題だ。

先に結果を述べると、次の地図のようになるらしい。(2000人による投票結果)

 

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見ての通り、砂糖を入れるという人は寒い地方に多い。

もっとも、上の「けっこう入れる」に色分けされているところも、回答の「10%以上の人」が砂糖を入れていれば「けっこう入れる」と判断しているようなので、全体的に言えば、砂糖を入れる人が少数派であることに変わりはない。

(砂糖を入れる理由についても考察されているが、ここでは省略する)

 

では実際に、納豆に砂糖を入れるとどんな感じになるのか? 試してみた。

どのくらいの分量を入れるべきなのかわからなかったので、30グラムの納豆に、とりあえずティースプーンに軽く一杯の砂糖を入れてよくかき混ぜ、食べてみた。

…………うん、まあ、甘味がついているのはわかるが、納豆自体の味が強いので、このくらいの分量ではなんとも言えない。中途半端な結果だ。砂糖を入れるときにちょっとビビって少なめにした自分が情けない。

もっとはっきりとした味が知りたかったので、思いきってティースプーン山盛り3杯分を追加する。これならどうだ?

改めてかき混ぜる……お? おお! なんだこの粘りは!?    尋常じゃないほど粘りが強い。誇張ではなく、本当に箸が折れそうだ。上の本にも、砂糖を入れると粘りが強くなるとは書かれていたが、まさかこれほどとは……。

箸で持ち上げると、伸びる伸びる。ちょっとおっかなびっくりで口にすると……餅だ! まるで餅のような食感だ! 納豆の糸の束(?)に、やわらかく煮た餅ぐらいの歯ごたえがある。すごい。こんな納豆は初めてだ。

それで肝心の味は……うん、まあ、なんだ……「ご飯のお供」としてはありえないが、こういうスイーツだと言われれば……ギリギリ「あり」かな?

予想では、一口食べて「こんなの食えるかー!」という反応だと思っていたのだが、意外に食べられる。(無料素材で「ちゃぶ台返し」のイラストまで用意していたのに) 

味も食感も、とにかく不思議な食べ物だ。

普通の納豆に飽きた人は、一度試してみてはどうだろう。

新しい味覚が開ける、かも? 

 

(付記)上の本の姉妹編として『天ぷらにソースをかけますか?』(新潮文庫)という本もあるが、どちらも絶版。

現在は2冊を1冊に合わせて、ちくま文庫から決定版『天ぷらにソースをかけますか?』(2018)として刊行されている。こちらはまだ新刊で購入できるので、こういう話に興味がある人は、ぜひ。

 

 

納豆の話

 

新型コロナウィルスに関する流言飛語(デマ)の中に、納豆に関するものがあった。

「納豆菌がコロナウィルスに効く」というものだ。

なんでも、コロナが流行し始めた頃、茨城県で感染者が出ていなかったので、誰かがそんな冗談を言ったのが拡散されたとか。(もっとも、この噂の起源自体も怪しいものだが)

それで需要が集中し、スーパーで一時的に納豆が品切れになった。

実際、私がいつも行っているスーパーでも、ある日突然納豆が棚から消えたことがあった。「何事か?」と思ったのだが、後で前述の話を知って呆れながらも納得した。そのスーパーでも2、3日後には普通の状態に戻ったので、その噂も長くは続かなかったのだろう。それとも、場所によってはまだ品薄状態が続いているのだろうか?

まあ、実際に過剰購入した人でも、本当に「納豆がコロナに効く」と思ったわけではないだろう。ただ漠然と「体にいい」とか「免疫力が高くなる」といったイメージで買ったのかもしれない。もっとも、普段食べない人が何日か食べたからといって、どうなるものでもないだろうけど。

 

毎日ではないけれど、二日に一回ぐらいは納豆を食べている。 

子どもの頃の食卓に納豆が出てきたことはほとんどない。食べるようになったのは大学に入って一人暮らしをするようになってからだ。

貧乏学生の食事でもっとも大事なことは、とにかくご飯が進むこと。これに尽きる。だからいわゆる「ご飯のお供」は欠かせない。

納豆があれば、あとは即席のみそ汁と漬物(あるいは佃煮)にちょっとした惣菜で充分だ。

しかも納豆は安い。そのうえ健康にいいとなれば、これはもう食べない手はない。

それ以来、学校は卒業したが貧乏は卒業できなかったので、ずっと納豆を食べている。

 

納豆好きにおすすめなのがこの本。

発酵・醸造学の専門家で、「発酵仮面」(!)の異名を持つ小泉武夫さんの『納豆の快楽』講談社文庫、2006 / 講談社、2000)だ。

 

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小泉さんはしょっちゅう海外に行くけれど、そのときは必ず納豆のパックを持っていくらしい。

海外に行ったとき、食べ物や水が合わずにお腹をこわす人も多い。特に小泉さんは調査のために、あまり一般の旅行者が行かないようなところに行って、一般の旅行者が食べないようなものを食べたりする。しかし納豆のおかげで一度もお腹をこわしたことがないという。

ラオスに行ってうっかり生焼けのウナギを食べたときも、ベトナムでうっかり「表面には薄い膜のようなものが浮いていて、明らかに枯草菌か何かに汚染されていたスープ」を飲んでしまったときも、ヤバいと思ってすぐに納豆を食べたらなんともなかったそうだ。(というか、うっかりしすぎでしょ)

とにかく食中毒の予防には効果抜群らしい。

この本は、前半では納豆の栄養や健康効果、歴史や文化について多角的に書かれていて、後半ではいろいろな食べ方が紹介されている。

読んでるうちに無性に納豆が食べたくなる。

 

ちなみに、私がいま一番好んでいる食べ方は、納豆に刻んだネギとタレを入れ、そこに多めの「すりごま」を加えるというもの。ごまの芳ばしい香りがいい。

納豆とごまの組み合わせは、健康効果としては「鬼に金棒」みたいなものではないか。(ごまは大豆と一緒に食べるといいと、ごまのパッケージに書いてあるし)

なんだかんだ言って、やっぱり健康が気になる歳なので。

 

 

続・雑草食

 

2週間ほど前に、庭に生えているカラスノエンドウ(ヤハズエンドウ)という雑草を食べてみた、という記事を書いた。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

このときはまだ実をつける前だったので、若葉の部分を「おひたし」にして食べた。

実はその後もう一度若葉を摘んで、今度はみそ汁の具にしてみたのだが、やはり特別うまいというものでもなかった。

 

いま、そのカラスノエンドウが少しずつ実をつけ始めた。

マメ科の植物らしく、小さいながらもちゃんと「さや」をつけている。

となれば、これもやっぱり食べてみようかという気になって、ちょっと「収穫」してみた。

 

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これをサッと茹でて、またみそ汁の具にしてみる。

ちなみに、私はみそ汁に緑の野菜(葉物野菜など)を入れるときは、それだけを別に茹でて、食べるときに一食分ずつ加えることにしている。一度みそ汁を作ると4、5食はそれを食べることになるので、ずっと入れておくと色が悪くなるからだ。(本来ならそういう細かいことを気にする性格ではないのだが、なぜかそこは気になってしまう)

 

みそ汁に入れる前に、茹でたものの一部を小皿に取って、軽く塩をふって食べてみる。うん、たしかに豆らしい味がする。(ちょっと固くて筋っぽいけど)

一食分だけおたまにのせてみそ汁(豆腐、エノキ)の鍋に入れ、少しなじませてお椀に入れる。葉の部分も足して、こんな感じになる。見た目はけっこううまそうだけど……。

 

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さっそく実食。

……うん、悪くない。カラスノエンドウ自体はそんなにはっきりした味はしないけれど、よく噛めばちゃんと独自の味がする。めちゃくちゃうまいというわけではないが、みそ汁の具としては「あり」だ。

実が固くなる前にもう一度食べてもいいかな。 

 

今回、雑草を食べてみて思ったのは、(逆説的だけど)普通の野菜ってうまいんだな、ということだ。

ほかの雑草を食べたことがないので断定はできないけど、「食べられる」といっても雑草はそこまでうまいものでもないだろう。たまに食べるから珍しさがあっておいしいと感じるのであって、毎日食べたいかというと「否」だ。

いま八百屋やスーパーで売ってる普通の野菜も、その原種にあたる植物は雑草と似たようなもので、そんなにうまいものでもなかったのだろう。(想像だけど)それを人間が長い時間をかけて品種改良し、いまあるような、それぞれ味がはっきりしたおいしい野菜にしたのではないかと思う。

そう考えると、普段食べているありふれた野菜でもちょとだけありがたみが増す(ような気がする)。

 

ある意味「食育」として、たまに雑草を食べてみてはいかが?

 

 

寝ても覚めても

 

古本に夢中になり始めた頃は、いつも古本屋を探していた。

まだネットが普及していなかったので、タウンページで当時住んでいた地方都市の古本屋をリストアップし、紙の地図に印をつけ、それを片手に探して歩いた。

当時はまだ小規模な古本屋(扱っていたのはありふれた中古本だが)がけっこうたくさんあって、そういう店はいつの間にかなくなってしまうのだが、別のところでいつの間にか似たような店ができていたりする。そういう店まで細かくチェックしていた。

そんなふうに古本屋のことばかり考えていると、自然と夢の中にまで古本屋が出てくるようになる。まさしく「寝ても覚めても」という感じだった。

その中のいくつかは、いまでもけっこう細かいところまで覚えていて、ふと、あれは夢ではなく、実在した古本屋なのではないかと思ったりする。

 

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ある(架空の)古本屋は、車道から用水路を一本隔てた歩道沿いにある。用水路といってもコンクリートで固められたものではなく、ちょっと見ると小川のようでもある。店の外壁は白く塗られていて、店内の本棚も白を基調にしており、歩道に面した広いガラス窓から差し込む日差しと相まって、やけに白々とした空間をつくっている。

また別の(架空の)古本屋は、私が住んでいたアパートの近くの交差点の一角にあった。正面から見ると、引き戸の入り口の幅しかないような、極端に間口の狭い店に見える。しかし店に入ってみると、その狭い間口がそのまま奥に伸びていって、いわゆる「うなぎの寝床」のような造りになっている。入ってすぐのところに帳場(レジ)があり、それ以外は細い通路を挟んで壁一面の本棚が奥まで続いている。

街を外れた郊外にも(架空の)古本屋があった。バイパス道路を走っていると、ポツンと二階建ての建物が見えてくる。そこは一階が古美術品を扱っていて、二階が古本屋になっているのだ。この古本屋に行った帰りには、決まってバイパスの入り口にある(架空の)スーパーで惣菜を買って帰ることにしていた。

その他にも、私が通っていた大学の近くには(架空の)ブックオフが2店もあって、学校帰りによく寄ったものだ。

 

まあ、細かいところは無意識に後から「補強」した可能性もあるが、だいたいこんな感じの夢だ。あまり鮮明ではない古本屋の夢ならもっとたくさん見た。

 

あの頃はおもしろかったなあ。

初学者の喜びというか、なんでも夢中になり始めた頃が一番楽しい。見るもの聞くもの新しく、世界が広がっていくのがはっきりとわかる。

いまも古本や古本屋は好きだし、楽しんでいるけれど、当時ほどの情熱はないような気がする。(と言いながらけっこう買っているが)

情熱と経験は反比例するのだろうか。

いまはその情熱が懐かしい。

 

 

変な夢

 

朝、目が覚めたときから頭痛がしている。(熱はない)

そんなに酷いものではないけれど、起き上がるのが億劫だ。

しかし腹は減っているので、とりあえずパンを食べるが、気分はすぐれない。やれやれだ。

今日は休日なので、午前中からタケノコを掘るつもりだったのだが、この調子ではダメだ。会社の仕事なら多少無理をしてでもやらなければと思うが、家仕事はそこまでしてやろうとは思わない。(なのでどんどん溜まっていく)

頭痛薬を飲んで、いつものように四分の一にカットした「トクホン」をこめかみに貼り、冷却シートを額に貼り、タオルで鉢巻きをして横になる。

うつらうつらしてきて眠りに落ちる。

変な夢を見た。

 

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どこか田舎の公民館のようなところにいる。

畳敷きの部屋に座っている私の前には低い長机があって、その上に何枚かの紙が散らかっている。なにか調べ物をしているようだ。

不意に背後から老人に声をかけられ、昼ご飯をどうするかと訊かれる。

いえ、そろそろ帰りますから、と答える。

近くに置いてあった、錆が浮いた古い手提げ金庫を開けて自分の携帯電話を取り出し、書類をまとめてリュックに押し込んで公民館を出た。

すると突然、そこが北海道で、私は(九州から)原付バイクに乗って来たことを思い出した。

けっこう遠いなあ、と思いつつ、帰りは古本屋に寄って帰ろうと思った。

 

目が覚めたけれど、頭痛はあいかわらず続いている。

コーヒーを飲んで、横になって適当にアニメをみているうちにまた眠ってしまう。

 

シャワーを浴びている。

するとどこからともなくピロリロという賑やかな電子音が聞こえてきた。

あっ、(パチンコの)大当たりだ! と気づく。私は裸にバスタオルを巻いただけでシャワー室を飛び出す。

と、パチンコ屋の中にいる。しかしそこは真っ暗闇で、人っ子一人いない。

その中で一台だけ光っているパチンコ台があり、いままさに大当たりしている。

早く打たないと大当たりが失効してしまう。私は裸のまま椅子に座り、そのまま打ち続ける。

よかった、なんとか間に合った。私は嬉々としてドル箱を引き寄せる。

少し離れた物陰から、3、4人の店員が隠れるようにしてこちらの様子を窺い、何事かヒソヒソと話し合っている。

 

パチンコはもう20年ぐらいやってないし、いまやりたいとも思わないのだが、ときどき夢に見ることがある。

 

こうしてまた無為に一日が過ぎていく。