何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

マスク生活

 

あいかわらずマスクが手に入らない。

いつも行くスーパー、ドラッグストア、コンビニをまわっても、入荷されていないのか、それとも入荷と同時になくなってしまうのか、とにかく棚はいつもすっからかんだ。

10日ほど前までは職場でも用意してくれていたのだが、総務の人がもう無理だと言っていた。

しかし外を歩いている人はたいていマスクをしている。みんないったいどこかから調達しているのだろう。

 

それにしても、つい3ヶ月ほど前には、これほどマスクのことを考えて生活をするようになるとは思ってもみなかった。ごくありふれた消耗品だったはずなのに。 

ブログでもマスクを手作りしたという記事がちらほら見受けられる。この状況は長引きそうなので、私も自作を考えた方がいいのかもしれない。

もっとも、それは実際に自分が感染したり、他人に感染させたりということの危機感からというよりも、すでにマスク着用が社会的マナーになってしまったからということが大きい。

 

仮に、あまり考えたくないことだが、この新型コロナウィルスに起因する状況が1、2年ぐらい終息しなかったり、第二第三の新型ウィルスが出てきたりしたら、マスクの着用はもうマナーではなく常識になるかもしれない。

外に出るときに靴を履くように、マスクをつけるのが当たり前の生活になるのだ。

 

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しかし、そうなったらなったで、今度はいかにマスク生活を楽しむかが課題になってくるのではないか。

いまはほとんどの人が白いマスクをつけているが、それがもっとカラフルになったり、さまざまな柄や形のマスクが流行るかもしれない。マスクは衛生用品であると同時にファッションアイテムにもなって、ネクタイやハンカチと同じように衣料品売り場でも売られるようになるだろう。ファッション雑誌で服装とマスクのコーディネートが話題になったり、フォーマルマスクとか売られたりして。

「あなたの大切な人にマスクを贈りましょう」みたいなキャンペーンがあって、バレンタインデーや父の日にマスクをプレゼントするようになったりするかもしれない。

ひょっとしたら、マスクを常用することで女性のメイクの仕方も変わってくるかもしれないなあ。

なにをのんきなことを言っているのか、と思うかもしれないが、人間は(良くも悪くも)状況に慣れてしまう。そしてその中で少しでも喜びや楽しみを見つけようとするものだ。

だからマスク生活が日常的になったら、きっとそこに「楽しさ」を付与する工夫をするだろう。

  

外でマスクを着用することが完全に社会規範の一部になってしまったら、それがない生活は想像できなくなるだろう。

私たちが近代以前の人々の生活について思うように、そう遠くない未来、マスクを常用する人間たちは、マスクをつけていない過去の人間の映像を見て思うかもしれない。 

「よくこんな不衛生な生活をしていたものだ……」と。

 

 

雑草食

 

雑草のことを調べていると、ときどき「食べられる」と書かれているものがある。

実際にそういう雑草を採集して食べている人もけっこういるようで、「雑草 食べる」で検索してみると多くの記事が見つかる。なかには動画で食べ方を解説しているものまである。

雑草に限らず、山菜やキノコなど、自然に自生しているものを採集して食べている人をみると、すごいなあと思う。ちょっとかっこいいとさえ思う。

いまの時代、(選り好みしなければ)加工した食べ物が安価に手に入る。それをあえて自然の中から自分で探し出すというのがいい。

 

そういうのを見ると、自分も一度やってみたいと思うのだが、好奇心はあっても勇気がない。

たとえば食あたりになって病院に行ったとして、「なにを食べました?」と訊かれて「雑草……」とは言いにくい。

さらに、万が一あたりどころが悪くて(?)死んだりでもしたら、ご近所さんになんと言われるかわかったものではない。

「ちょっと奥さん、聞きました? こないだ亡くなった○○さん、なんでも雑草を食べたのが原因らしいですよ」

「まあ、ほんと? お気の毒に。よっぽど困ってらしたのね……」

などと言われたらたまらない。

違いますよ! 貧乏だからじゃなくて、あくまで好奇心ですから! と反論したくても、死人に口なしである。

 

前回、庭に生えているカラスノエンドウという雑草のことを記事に書いたのだが、ふと、食べてみようかなという気になった。

自分の家の庭にあるものだし、少量なら大丈夫かなと思ったのだ。

マメ科の植物なので豆の入った「さや」をつけるのだが、時期的にまだ早いので、食べるとしたら蔓状の茎の先端部分か。

ネットの記事を参考にしながら、とりあえず少し採集してみた。

 

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虫食いのないところを探すのがけっこうたいへんだ。

ネットにあるレシピでは、これをかき揚げにするというものが多い。カラスノエンドウに限らず、山菜や雑草はとりあえず天ぷらというのが定番らしい。たしかにうまそうなんだが、私は揚げものはしないのでこれは却下。今回はシンプルに茹でて「おひたし」にしてみる。

で、こんな感じに。

 

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少し麺つゆをかけてとにかく実食。
しかし麺つゆをかけたのは失敗だった。味がよくわからなくなってしまったのだ。まあ、それだけクセのない味とも言えるが。(苦味もなかったし)食感は、少しスジっぽいかな。

もう一度食べたいか、と言われれば、それほどでも……と言うしかないが、調理に工夫が足りなかったのかもしれない。

レシピにはほかにごま油で炒めるというものもあった。みそ汁やお吸いものの具にするという手もある。それから、少し手間がかかるが、乾燥させたものを煎じてお茶として飲むというのも紹介されていた。

いろいろと健康効果もあるようなので、興味がある人は(自己責任で)やってみてはいかが?

 

ああ、そろそろタケノコも掘らなきゃいけないなあ……。

田舎の春はなにかといそがしい。

 

 

カラスとスズメの間には(草の名前・その4)

 

春になった。

人間の世界は新型コロナウィルスのために沈滞ムードが漂っているが、そんな人間界をよそに動植物は活動を活発にする。

というわけで、うちの庭でも雑草の成長が目立ってきた。今年もまた雑草との闘いが始まるのだ。(実際は闘わずに不戦敗なのだが)

 

その庭の一画で、いまじわじわと勢力を拡げつつあるのがこの雑草。

 

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画像ではちょっと形がわかりにくいが、紅紫色の花をつけるこの草はカラスノエンドウ、だと思う。

(植物学的にはヤハズエンドウ[矢筈豌豆]という名前が標準的に用いられるが、一般的にはカラスノエンドウという名前の方が定着しているらしいので、この記事でもそちらを使う)

 

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花よりもむしろ葉っぱの形状の方が特徴的だ。

ちなみにカラスノエンドウは「烏の豌豆」ではなく「烏野豌豆」 と書く。ソラマメの仲間だ。

いまはまだ時期が早いが、しばらくするとマメ科の植物らしく豆(種)が入った「さや」をつける。そのさやが成熟すると黒く色づくところから「カラス」の名前がついたとも言われる。(異説あり)

古代には食用として栽培されていたらしいが、現在では広く自生する雑草になっている。もっともいまでも若葉やさやを摘んで食べる人がけっこういて、「カラスノエンドウ 食べる」で検索すると食べ方を解説した記事を多く見ることができる。

 

ところで、このカラスノエンドウの類縁種にスズメノエンドウ(雀野豌豆)というのがある。

一見するとカラスノエンドウと同じようだが、全体的に丈が低くて花も小さい。(ほかにも見分け方があるが割愛する)

名前の由来は、カラスよりも小さいからスズメ……。このネーミングの適当感がいい。雑草の名前にはこういう適当というか、素朴なものが多いような気がする。カラスもスズメも人間の生活圏にいる鳥だから、名前に使われやすいのだろう。

もうひとつよく似た類縁種にカスマグサというのがある。これはカラスノエンドウスズメノエンドウの間ぐらいの大きさらしい。つまり、

カラスノエンドウ(大)

カスマグサ(中)

スズメノエンドウ(小)

という関係になる。しかしなぜカスマグサだけ名前のタイプが違うのか?

実はカスマグサの「カスマ」とは「カ」ラスと「ス」ズメの間(マ)という意味なのだ。

て、適当……。それはいくらなんでも扱いがぞんざいすぎやしないか?

よくできた長男と、かわいい末っ子の間のどうでもいい次男みたいな……。

せめてハトノエンドウ(仮)とかにしてあげて。

 

 

「あぶく銭」の使い方

 

先月、ひょんなことから3万円分のAmazonギフト券というものをもらった。

まったく予期していなかったもので、喜ぶというよりちょっと面食らってしまったのだが、これをどう使おうかと思案している。

急に降って湧いた「あぶく銭」だと思うと、少し変わった使い方をしてみたくなったのだ。

「おうおうおう、こちとら江戸っ子でぃ、宵越しの金なんざもたねーや、べらぼうめぃ」みたいなことを言ってみたいのだ。(九州人だけど)

 

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そこでふと思い出したのが「図書カード三万円使い放題!」という企画だ。

私が毎月買っている雑誌本の雑誌不定期連載企画で、いろいろな作家に3万円分の図書カードを渡して書店で好きな本を買ってもらい、その買い物の様子をレポートする(あるいは自分で書いてもらう)というものだ。

小説の資料にする高額な本を買ったり、漫画のセットを大人買いしたりと、人によって使い方が違っていておもしろい。

このコーナーを見るたびに、いいなあ、うらやましいなあと思っていた。自分がもし3万円分の図書カードをもらったらどう使おうかとあれこれ考えるのだが、そんなおいしい話があるわけないと思っていた。

ところが、いまここにそのおいしい話が現実になったのだ。しかも金額も同じ3万円。

これはもう実行するしかない。(ブログネタにもなるし)

私は喜び勇んでAmazonを開いた。

のだが……。

 

結果からいえば、ダメだった。できなかった

トラブルが起きたわけではない。3万円を一気に使うという行為に対して、私の貧乏くさい理性がNOと言ったのだ。

私の理性がワンガリ・マータイさんのように「モッタイナイ、モッタイナイ」と連呼する。いくら「あぶく銭」といってもお金はお金。もっとよく考えて使うべきではないのか。そんな遊び感覚でお金が使える身分か? どこのお大尽だよ⁉︎ ご利用は計画的に!

そんな言葉が頭の中に渦巻いて、ポチッとしようとした指が硬直する。

そうすると今度は逆に、お金を使うことに必要以上に慎重になってしまい、なにも買えなくなってしまった。なにを買っても無駄遣いのような気がしてきたのだ。

お金を大切に使うことは大切だが、使うべきものに使えないのでは意味がない。

このお金をなににどう使えばいいのか、だんだんわからなくなってきた。

結局3万円はいまも手付かずで残っている。 

 

今回のことは極端な例だけれど、どうも私はお金の使い方が下手くそだ。

私の両親はお金の教育についてあまり熱心ではなかった。というか、子どもがお金の話をするのを快く思っていなかった。それで大人になってからけっこう苦労している。

もっと若い頃から、いや子どもの頃からお金との付き合い方(稼ぎ方、貯め方、使い方)をちゃんと学んでおくべきだったなあ。

50歳にしてそんなことを思っている。

 

 

「志村、後ろー!」

 

志村けんさんが亡くなった。

新型コロナで陽性反応が出ていたことは知っていたが、まさか亡くなるとは考えてもいなかった。

70歳という年齢を考えれば、ありえないことではなかったはずなのだが、想像できなかった。

 

新型コロナをめぐる問題がどんどん大きくなっていっても、正直なところ、私にはまったく危機感というものがなかった。

自分が感染していないのはもちろんだが、身近に感染した人の話も聞かないし、子どもがいないので学校が休みになっても関係がない。テレワークやリモートワークが話題になっても、(職種的に)私の仕事はなにも変わらず、普通にバイクで通勤している。「不要不急」の外出はひかえろと言われても、もともとが出不精で、「必要緊急」の外出さえしたくないのだから、これも問題ない。

要するに、コロナ以前とほとんど変わらない生活なのだ。

志村さんの死は、そんな私ののんきな「日常感覚」を少しだけ揺さぶった。

ここ数年はほとんどテレビを見ないので、ニュースやワイドショーなどで必要以上に不安をあおられるということもないのだが、ことコロナに関して言えば、必要最低限の情報と危機感が足りなかったのではないかと思った。

有名人が亡くなったから危機感を覚えるというのも、考えてみればおかしな話だが、実感なのだからしょうがない。

 

私が小学生の頃、土曜8時のテレビといえば『8時だョ! 全員集合』に決まっていた。

「子どもに見せたくない番組」No.1などと言われていたが、うちでは家族そろって楽しみにしていた。(『暴れん坊将軍』が始まるまでは……)

そのコントの中で私が好きだったのは「志村、後ろー!」というギャグ(?)で、幽霊コントなどでよく使われた。

志村さんが客席の方を向いて立っている。背後のセットの陰から幽霊がスーッと現れる。志村さんは気づかない。すると客席の子どもたちが大声で「志村、後ろー!(幽霊がいるぞ)」と叫ぶ。志村さんが振り返る。しかし、幽霊が一瞬早く隠れたので、なんだ気のせいかとまた前を向く。もう一度この流れを繰り返す。そして3回目、今度は振り返るタイミングがずれて志村さんと幽霊の顔が合い、「うわぁぁぁぁ!」……爆笑。

単純といえば単純だけど、舞台の上と客席、そしてテレビの前が幸福な一体感に包まれたような気がした。

 

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しかしいま、「志村、後ろー!」と叫んでも、その声はもう志村さんには届かない。志村さんは、その背後にあった〈死〉にのみこまれてしまった。

その〈死〉はもちろん私たち一人ひとりの背後にもある。私たちはそれを知っている。知ってはいるけれど、ほとんどの人はそれを実感することなく日常を生きている。

ときどき何かのきっかけで「後ろー!」と言われたような気がして振り返る。しかしそこに〈死〉はなく、なんだ気のせいかとまた日常に戻る。 

そしてある時、たまたまタイミングがずれて、振り返ったときに〈死〉と顔が合う……。 

志村さんの死によって私が危機感を覚えたというのは、

「後ろを見ろ。わかってるな? お前の後ろにも〈死〉があるということを」

と言われたような気がしたからかもしれない。

もちろんこれは私が勝手にそう感じただけで、志村さん自身は、こんなカビ臭い教訓をたれるような人ではなかったかもしれないが。

 

志村さん。長い間楽しい時間をありがとうございました。

こころからご冥福をお祈りします。

 

 

人生いもいも

 

久しぶりに自分でカレーを作ってみようと思った。(最近はレトルトばかりだったので)

冷蔵庫の中を確認し、足りない食材を前日の仕事帰りに買って、休日の今日作る。

ところが、いざ作ろうとすると、ジャガイモが傷んでいることに気づいた。見た目は大丈夫そうだったので、まだ使えると思って昨日は買わなかったのだが……そういえばこのジャガイモ、いつ買ったものだろう? 思い出せないくらい昔のものか。

さて困った。ジャガイモが入っていないカレーなど食べたくない。といって、今から買いに行くのも面倒だ。作るのはまた今度にするかな、と思ったとき、サツマイモがあるのを思い出した。

親指よりひとまわり太いぐらいのサツマイモが、数本入って100円だったのを数日前に買ってあったのだ。

まあ、同じイモだし、これでいいか、と思って代用する。

できたカレーを食べてみると、これが思ったよりもうまい。辛いカレーの中で、サツマイモのほんのりした甘さがほどよいアクセントになっている、ような気がする。(なにぶん「貧乏舌」の言うことなので、あまり信用しないように)

ふと気になって、「カレー サツマイモ」で検索してみると、いくつもレシピが出てくる。なんだ、私が知らなかっただけで、そんなに珍しいことではなかったのか。

「カレーにはジャガイモ」と思っていた固定観念がちょっと揺さぶられる。まあ、そんな大げさな話でもないんだが。

 

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そんなことを考えていたら、子どもの頃のことを思い出した。

私が小学生の頃は、土曜日はまだ休みではなく、午前中だけ学校があった。給食はなく、子どもたちは家に帰って昼ごはんを食べる。

私の家は共働きだったので、お昼の用意をしてくれるのはいつも祖母だった。たいていは手のかからないありあわせのもので済ませるのだが、ときどき「いもの天ぷら」を作ってくれた。しかしそれは一般的なサツマイモの天ぷらではなく、ジャガイモの天ぷらだった。

たしか当時は家でもジャガイモを作っていて、その辺に(文字通り)ゴロゴロしていたのだ。

そのジャガイモの天ぷらに、ただ醤油をかけて食べるだけなのだが、サツマイモよりもあっさりしていて、これがなかなかうまい。

さらに、ときどきだけど、ただの醤油ではなく「酢醤油」で食べることもあった。これがさっぱりしていてまたうまい。あっさりでさっぱりだ。

……という記憶があるのだが、なにぶん40年ぐらい前のことなので、自分でもいささか心もとない。本当にうまかったのか? 天ぷらに酢醤油とかアリなのか?

気になったのでまた「ジャガイモ 天ぷら」で検索してみると、けっこうレシピが出てくる。ただし、細切りにしてかき揚げみたいにしているものが多い。うちのは普通に輪切りだった。

これに「酢醤油」を加えて再検索。すると、ジャガイモではないけど、天ぷらを酢醤油で食べるというブログ記事がいくつか出てきた。かなり少数派の意見だと思うが、まあ、うちだけではなかったようだ。

 

うーん、こんなことを書いていると、ジャガイモの天ぷらが食べたくなってきた。

しかし、私は煮物や炒め物ぐらいはするけれど、自分で揚げ物はしない。

ジャガイモの天ぷら+酢醤油は、いまのところ記憶の中にだけ存在する「幻の味」になっている。

 

  

短気は損気

 

まだ二十代の頃、何度か英語で書かれた本を読もうとしたことがある。

しかし、最初の十数ページを読んだだけでことごとく挫折し、結局一冊も読み通すことが出来なかった。

挫折の理由はだいたいいつも同じで、一言でいえば、我慢ができなくなるのだ。

 

英語の多読を勧めるような本では、たいてい「わからない単語や文章はどんどんとばして先に進むべし」というようなことが書いてある。しかし、これが私にはできない。理由は2つ。

ひとつは、基本的な英語力が低いので、わからないものをとばして読むとページが「虫喰い」状態になって、なにがなんだかわからなくなってしまう、ということがある。しかし、これはまあ、仕方がない。 

もうひとつは性格的な問題で、どうやら私は、文章というものは一字一句キチンと読まなければならないと思い込んでいるフシがあるのだ。いわゆる「とばし読み」や「ななめ読み」というのが苦手だ。だから読むのがとても遅い。

英文でもそうで、わからない単語が出てくるといちいち辞書を引くし、うまく意味が取れない文章は、前後を行きつ戻りつしながらなんとか解釈できるまで先に進めない。当然1ページ読むのにものすごく時間がかかる。そして、イライラソワソワしてくる。 

 

こんなことをしていていいのか?

もっとほかに読むべき本があるんじゃないか?

無理して英語の本を読んでいるこの時間で、翻訳小説がどのくらい読めると思う?

こんなふうに考えだすと、もういけない。それ以上読むのが馬鹿馬鹿しくなって、それっきりになってしまう。そんなことを(本を変えて)何回か繰り返した。

しかし一冊も読み通すことができず、そのうち英語に対する興味も失ってしまった。

 

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若い頃というのは、時間がたくさんあるはずなのになぜか「せっかち」で 、早く結果を出そうとあせってしまう。(私だけかもしれないが)

「継続は力」というのも、理屈としてはわかっているけれど、結果が出ないとなかなか続かない。語学などはその最たるものだろう。

もしあの頃、短気を起こさず気長に構えて、少しずつでも、休み休みでも英語の本を読み続けていたらどうだったか。

それで英語を「使える」ようになったり、いわゆる「ものにする」ことはできなかったと思うが、英語を楽しいと思うようにはなっていたかもしれない。

そう思うと、ちょっと残念だ。

 

 

今週のお題「わたしと英語」 

アルク #トーキングマラソン 特別お題キャンペーン「わたしと英語」

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by アルク「トーキングマラソン」