何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

短気は損気

 

まだ二十代の頃、何度か英語で書かれた本を読もうとしたことがある。

しかし、最初の十数ページを読んだだけでことごとく挫折し、結局一冊も読み通すことが出来なかった。

挫折の理由はだいたいいつも同じで、一言でいえば、我慢ができなくなるのだ。

 

英語の多読を勧めるような本では、たいてい「わからない単語や文章はどんどんとばして先に進むべし」というようなことが書いてある。しかし、これが私にはできない。理由は2つ。

ひとつは、基本的な英語力が低いので、わからないものをとばして読むとページが「虫喰い」状態になって、なにがなんだかわからなくなってしまう、ということがある。しかし、これはまあ、仕方がない。 

もうひとつは性格的な問題で、どうやら私は、文章というものは一字一句キチンと読まなければならないと思い込んでいるフシがあるのだ。いわゆる「とばし読み」や「ななめ読み」というのが苦手だ。だから読むのがとても遅い。

英文でもそうで、わからない単語が出てくるといちいち辞書を引くし、うまく意味が取れない文章は、前後を行きつ戻りつしながらなんとか解釈できるまで先に進めない。当然1ページ読むのにものすごく時間がかかる。そして、イライラソワソワしてくる。 

 

こんなことをしていていいのか?

もっとほかに読むべき本があるんじゃないか?

無理して英語の本を読んでいるこの時間で、翻訳小説がどのくらい読めると思う?

こんなふうに考えだすと、もういけない。それ以上読むのが馬鹿馬鹿しくなって、それっきりになってしまう。そんなことを(本を変えて)何回か繰り返した。

しかし一冊も読み通すことができず、そのうち英語に対する興味も失ってしまった。

 

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若い頃というのは、時間がたくさんあるはずなのになぜか「せっかち」で 、早く結果を出そうとあせってしまう。(私だけかもしれないが)

「継続は力」というのも、理屈としてはわかっているけれど、結果が出ないとなかなか続かない。語学などはその最たるものだろう。

もしあの頃、短気を起こさず気長に構えて、少しずつでも、休み休みでも英語の本を読み続けていたらどうだったか。

それで英語を「使える」ようになったり、いわゆる「ものにする」ことはできなかったと思うが、英語を楽しいと思うようにはなっていたかもしれない。

そう思うと、ちょっと残念だ。

 

 

今週のお題「わたしと英語」 

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