何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

寝食忘れるべからず

 

ここ数日ずっと京極夏彦『鵼の碑』講談社、2023)を読んでいるのだが、まだやっと半分ぐらいで、ぜんぜん読み終わらない。

いつものように煉瓦みたいに分厚い本(二段組800頁余)だし、それでなくても私は超遅読なので、もどかしいような、でも嬉しいような、そんな日々である。

以前は遅読をなんとかしたくて、速読の練習みたいなことをしたこともあるけれど、いまはもう仕方がないとなかば諦めている。

風呂に喩えれば、速読の人というのは熱い湯にサッと入ってサッと出るようなイメージだが、遅読の私はぬるいお湯に長い時間浸かっているようなものか。

これはどちらがいいというものではなくて、癖や習慣、あるいは体質みたいなものだと思うので、しょうがないと言えばしょうがない。まあゆっくり温まることにしよう。

しかし、このくらい分厚い本でも学生時代だったら3、4日で読み終えていただろう。

読むのが遅いのは昔からだが、当時は自由に使える時間がたっぷりあったし、なにより若い頃は寝食を忘れるように何かに没頭できた。

夢中になりすぎて明け方まで起きていたとしてもほとんど寝ずに授業に出ていたし、まあ1日ぐらいサボったって何も言われなかった。食事だって適当で、なんならずっとカップ麺でもよかった。多少生活に支障をきたしても、趣味を優先することができたのである。無理ができたのだ。

しかしいま同じことはできない。

趣味に没頭して寝不足になったので会社を休むなどできるわけもないし、がんばって出社してもいい仕事はできないだろう。食生活にもある程度は気をつけないと体を壊すし、メンタル的にもよろしくない。

もう無理はできないのである。

 

そもそも心身の調子が良くないと趣味だって充分に楽しむことはできない。

例えば読書にしても(個人差はあると思うが)けっこう気力や体力を使う。心身が不調であればあまり良い読書はできないだろう。体が資本というのは読書も同じ。良い読書は良い生活からである。(と言っている私自身がそうできているかどうかは別にして)

寝食を忘れるほど何かに夢中になれるのは素敵なことではあるけれど、それはまあ若い時の話で、ある程度の年齢になったら食事や睡眠を疎かにしてはいけない。

寝食忘れるべからず、なのである。