何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

彼岸花幻想

 

いまの季節に田んぼ道をバイクで走っていると、道沿いに色鮮やかな彼岸花を見ることができる。

周りにある色が稲の黄や黄緑、雑草の緑ばかりだから、その花の赤い色がことさら目立つ。

色ばかりではなく、その姿形も独特だ。葉もつけずにすうっと伸びた細い茎の上に、丸みを帯びた細い花弁の花がぽつんと乗っている。一見すると一つの大きな花のようだが、実際は小さな花が六つぐらい放射状に咲いているのだ。その花が道沿いに列を作るように並んでいる。

いまは自生しているが、もともとは人が植えたものかもしれない。彼岸花には毒があるので、その毒で害虫や小さな害獣が田んぼに入ってくるのを防ぐために植えることがあったらしい。昔の人の知恵である。

 

 

それにしても彼岸花とはすごい名前だ。

いや、もちろんそれは秋の彼岸の頃に咲く花という意味なのだろうけれど、この世ならぬ彼岸に咲く花とも受け取れる。そう言われてもなんとなく納得してしまうような雰囲気が、あの花にはある。

一説には、この花の球根を食べると(最悪の場合)死んでしまう、つまり彼岸に行ってしまうことから付いた名前とも言われるが、これはどうも後付けのような気がする。

また彼岸花には曼珠沙華という別名もあるが、これはもともと梵語サンスクリット語)を音写したもので、仏典に見られる「天上の花」の一つらしい。やはり彼岸に咲く花か。そう言われると、なんとなく有難く高貴な花のような気もしてくる。この花がお寺や墓地でよく見られるのも(自生しているものもあるのだろうが)そういう理由で意図的に植えられているのかもしれない。

この他にも彼岸花には多くの別名があるのだが、不吉で不穏な名前が多い。曰く、葬式花、墓花、死人(しびと)花、地獄花、幽霊花、火事花などである。(Wikipedia参照)

やはり《死》と結びつくイメージが強い。そういう花なのだ。

 

桜の樹の下には屍体が埋まっている!/ これは信じていいことなんだよ。》

というのは梶井基次郎の小説「桜の樹の下には」の冒頭だが、そのイメージは彼岸花にこそ似つかわしいのではないか。

野辺に咲き誇る彼岸花の下には、無数の屍体が埋まっている。あの花は冬虫夏草よろしくその屍体から養分を吸い上げ、それでこの世ならぬ花を顕現させているのではないか。

そうでなくてはあの花の美しさを説明することができない。

きっとそうだ。そうに違いない。

あの花は……。

 

彼岸花の下には屍体が埋まっている。

これは信じていいことなんだよ。