何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

ブログ、あるいは手造りの小屋

 

ブログを始めた理由はたぶん「憧れ」だったのだと思う。

好きな書き手の好きな文章があって、自分もそんな文章を書いてみたいという気持ちがあった。

別の言葉で言えば、それまでずっと「読む側」だったのが真似事でもいいから「書く側」に回ってみたいという気持ちである。

しかし理由はあってもなかなかきっかけがなかった。そもそも数年前まではネットに繋がってもいなかった。それがひょんなことからタブレットを購入することになり、そこからネットに繋がって、それがきっかけでずっと興味があったブログを始めることにしたのである。

 

しかし、始めて1、2年ぐらいは4日に1度ぐらいのペースで更新していたものの、次第に間隔が空くようになり、去年の後半からは月に2、3回ぐらいの更新になっている。

そうなってくると、だんだん自分の「書きたい」という気持ちに疑問を持つようになる。

自分は本当に書きたいのだろうか。一応続いてはいるけれど、それはただの惰性ではないのか。そもそもブログを始めたのだって、一種のスノビズム(知的虚栄心)からではないのか。自分の中には「書かずにはいられない」というような強い衝動がないのかもしれない……。なんだか自分の「書きたい」という気持ちが偽物のような気がしてくる。

しかしそれもまたおかしな話で、「書きたい」という気持ちに本物も偽物もないのだろうし、純粋も不純もないのだろう。

ともかくときどき湧いてくるその「書きたい」という気持ちを信じて、いまもこうして細々とブログを書いている。

 

 

ところで、話は急に変わるけれど、最近 YouTube でよくキャンプの動画を見ている。

いや、キャンプというよりはサバイバルに近い感じで、ブッシュクラフトというのだろうか、既製品のテントなどを使わずに、簡単な道具で現地で小屋を造るような動画である。

倒木を利用して骨組みを造ったり、その辺の石を積み上げて壁を造ったり、土を捏ねて壁に塗り込んだりして小屋を造る。また、地面が少し盛り上がっている所では、斜面を掘って半地下の部屋を造ったりもする。

狭くてもできるだけ居心地がいいように、ベッドにテーブル、簡単な暖炉まで作る人もいる。

とにかくそこにある物をなんでも利用して、自分の手で寝泊まりする場所を造るのである。その様子がとても興味深い。

もちろん私自身は超インドアな人間なので、そういうキャンプがしたいわけではない。なんというか、その手作りの精神みたいなものに惹かれるのである。

ただ自然の中で過ごしたいというのであれば、既製品のテントでもいいはずだ。それを一から自分の手で居場所を作り上げるということにどういう意味があるのか。

これは私の勝手な想像だけど、彼らは自分の手で何かを作り出すことができるということ、その「手」の創造性と可能性を確かめたいのではないだろうか。

 

なぜこんな話をしているかというと、ブログを書くということと自分の手で小屋を造るということが似ているような気がするからだ。

身近にある言葉を使って文章を組み、その文章を積み上げて記事を作る。そしてその記事を積み重ねて、ネット上にブログという自分の居場所を作る。

それは広大な森の中で、手作業で自分の小屋を造ることに似ていないだろうか。

 

だから私がブログを書くのも、そんなふうに自分で考え、自分で工夫し、自分の手で何かを作り出せることを確かめたいからではないかと思うのである。

 

特別お題「わたしがブログを書く理由