何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

風前の灯火

 

気がついたら2週間もブログを更新していなかった。

もちろんこの場合の「気がついたら」というのは言葉の綾で、本当は「そろそろ更新しないと……でもなんだか気が乗らないなあ……もうちょっといいか……」という感じで、ずるずると先送りにしていたのだった。

11月に入って仕事は確かに忙しくなっている(というよりしんどくなっている)のだが、ブログを書く時間がまったくないというほどではない。それなのに手が止まっている。

 

やっぱり8月に「夏休み」と称して1ヶ月更新しなかったのがよくなかったのかもしれない。一度ペースが乱れてしまうと、元に戻すのはなかなか難しい。

しかしそういう習慣の問題ではなくて、もっと根本的なことなのかもしれないとも思う。

 

ブログに飽きてしまったのかな、と思う。

どんなに楽しいことでも人間は慣れてしまうのであり、つまりは飽きてしまう。好きで始めた事でも、いつかそういう時がくる。

もともと私は飽きっぽい人間なので、逆にブログが3年以上続いたことのほうがおかしいともいえる。

あるいは、私は自分で思っていたほど「書かずにはいられない」タイプの人間ではなかったということなのかもしれない。

他の人のブログを読んでいると、確かにそんな感じの人がいる。「書かずにはいられない」から書いている、というのはちょっとかっこいいし、自分もそうなのかもしれないと思っていた。

しかしどうやら私はそこまでの人間ではないようだ。書きたい気持ちはあるけれど、書かないなら書かないでもいい、といった程度の人間らしい。そう自覚することはちょっと残念というか、寂しいような気もするけれど。

 

ふと「風前の灯火」という言葉が頭をよぎる。

もともと零細ブログではあるのだが、いよいよここで燃え尽きてしまうのか……。

 

 

なんてね。

 

確かに私はブログに飽きてきたのかもしれないが、飽きたからやめるというのはいささか早計だと思う。

というのも、「飽きる」というのは一つの合図かもしれないと思うからだ。

いままでやってきたことが一段落したというか、一つのステージが終了したことを告げる合図であり、同時に次のステージが始まる予兆のような。

飽きた時点でやめてしまえばそれっきりだが、そこから(惰性でもなんでもいいから)さらに続けていれば、それまでとは違う楽しみが生まれ、新しい風景が開けることもあるのではないか。「飽きる」の先になにかあるのではないか。そんなことを期待してしまう。

いや、なんにもないかもしれないけれど、でももしかしたら……。

物事は飽きたら終わりではなく、むしろ飽きたところから始まるぐらいに考えておいたほうがいい。

 

そんなわけで、このブログ、風前の灯火ではあるのだけれど、その小さい火をしぶとく灯し続けたい。