前回、京極夏彦の『鉄鼠の檻』を再読しているという話をした。(まだ読み終わってない)
その際、事実確認のためにいろいろネットで調べていたら、「百鬼夜行シリーズ」(京極堂シリーズ)の最新長編『鵼の碑(ぬえのいしぶみ)』が来月刊行されるという情報を目にして驚いた。
シリーズの次回作としてそのタイトルが告知されたのが2006年のこと。実に17年前である。
当時は熱心に追いかけていた作家だったので、いつ出るか、もう出るかと心待ちにしていたのだが、スピンオフ的な中短編は刊行されるものの、その長編が出ることはなかった。それが来月ようやく刊行されるというのだ。
私が去年からこのシリーズを再読してきたのはまったくの偶然なのだが、結果的に新作を読む前にシリーズのいい復習ができた。いまから読むのが楽しみだ。
ところで、いま読んでいる『鉄鼠の檻』は箱根山中の禅寺が舞台になっている。当然今回のテーマは禅で、例によって禅に関する知識がこれでもかと盛り込まれている。
それで思い出したのだが、実は私も数年前に突然禅に興味を持ったことがあって、勢いで道元の『正法眼蔵』の現代語訳を買ったのである。しかし、がんばって50ページ程読んだところであえなくギブアップ、それっきりになってしまった。本はいまでも家のどこかで埃をかぶっているはずだ。すっかり忘れていた。
まあ、いきなり『正法眼蔵』から入ろうとしたのはさすがに無謀だった。もっとわかりやすい入門書的な本とか、せめて『正法眼蔵随聞記』あたりから入るべきだった。
これを機にもう一度その辺りに手をつけてみようか? いやしかし……。
なんだかとりとめのない話になってしまったが、ついでにもう一つ。
道元の曹洞宗には「只管打坐」(しかんたざ)という言葉がある。
「只管」は「ただ、ひたすら」という意味で、「打」は語調を整える接頭語、「坐」は「座禅」である。つまり「ただひたすらに座禅をする」という意味だ。
私たち素人は、座禅というと「悟り」を得る(あるいは「悟り」に至る)ためにするものだと思いがちだが、たぶんそれは少し違う。そういう何かのための「手段」として座るのではなく、ただ座るのである。それが「只管打坐」ということなのだろう。(それ以上のことは聞かないでほしい)
それで、何が言いたいかというと、こんな言葉を作ってみたのだ。
只管打読
しかんたどく。ただひたすらに読む。
役にたつからとか、得をするからとか、そういう何かのための「手段」として本を読むのではなく、ただ読む。読んでどうなるのか、何の意味があるのか、そんなことは考えずにひたすらに読む。そういう読書の有り様。それを「只管打読」と言いたい。
うん、なかなかいい言葉のような気がする。(自画自賛)
いや、だからどうしたというわけではないのだが……。