何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

再読のジレンマ

 

去年から気が向いたときにぽつりぽつりと京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」(京極堂シリーズ)を再読している。

いま読んでいるのは第4長編の鉄鼠の檻講談社、1996)である。

 

 

順番通りに読んでいるわけではないので、この作品を読み終われば長編は残すところあと1作品になる。

割と細かいところまで覚えていた作品もあれば、ほとんど忘れてしまっていたものもあって、この『鉄鼠の檻』はその忘れていた方の作品だ。なので、再読ではあるのだが、ほとんど初読のような気分である。

 

しかし今回はその『鉄鼠の檻』の話ではない。(まだ2割ぐらいしか読めてない)

この元版(講談社ノベルス)のカバーに印刷されていた鮎川哲也の「推薦文」がおもしろかったのである。

 謎解き長篇ミステリーを読み終えると、その本を抱えて古本屋に直行する人がいるという。犯人の正体が判った以上、この本を手元においておく必要性はない! というわけである。(中略)だがある程度の時間をおいて冷静になったら、そこで改めて読みかえす。そうすることが、真の意味でのミステリー読者ではないかとわたしは思う。(鮎川哲也「薦」)

そして再読することで、作者が仕掛けた「布石」や「詐欺術」が少しずつ判ってくるというのである。

京極堂シリーズはその情報量が異常に多くて濃密なので、一読しただけではなかなか理解が追いつかないところがあるが、そうではない普通のミステリー(という言い方も変だが)でも同じである。そしてもちろんミステリー以外の小説でも。

 

たいていの小説は一度読んでおおよその内容がわかるとそれで満足して、二度読むことは少ない。しかし、一度読んだだけでいったいどれほどのことがわかるのか。いや、そもそも小説を「わかる」とはどういうことなのか。

そう考えると、読むという行為が、読んだという経験が、とたんに不確かで曖昧なものに思えてくる。

だから気になった本はもう一度読む。何度読んだっていい。そうすることで読書が深くなる。

なかには何度読んでもわからない小説や、読めば読むほどわからなくなる小説だってあるかもしれないが、それはそれでいい。その「わからなさ」もまた読書の深みであり、豊かさなのだ。

 

しかし、そんなふうに再読が読書体験を深くしてくれると思いながらも、その一方で、一冊でも多く未知の本や未読の本を読みたいという気持ちも強い。

ある程度内容を知っている本よりも、まったく知らない本をできるだけたくさん読みたいというのも、本好きとしては自然な気持ちだろう。

そこに「再読のジレンマ」がある。

いや、なにもそんなにおおげさに言わなくても、未知の本も既知の本も好きなように読めばいいのだが、いかんせん時間は有限なのである。それでなくても私は超遅読、おまけに「貧乏暇なし」ときてる。時間がいくらあっても足りない。

ああ、せめて1日が30時間ぐらいあれば……などと子どものようなことを夢想するけれど、実際に30時間あったらアニメとか見るだろうなあ。

 

まあ、時間の問題は置いといて、もう一度読み返したいと思える本があるのは幸せなことだと思う。

若い頃に読んだ本を時間をおいて再読するというのは、歳をとることの(数少ない)楽しみの一つではないだろうか。