何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

瓶の中の手紙

 

今月の17日でブログを開設して1年になった。最初の投稿は、日付をまたいだので18日だ。

ブログには前から興味があったのだが、優柔不断の煮えきらない性格で、しかも超がつくほどのめんどくさがりなので、ずっと保留事項にしていた。それが、何がきっかけだったのか、とりあえずやってみるかという気になって重い腰を上げた。それが一年前。

ネットに疎いので、四苦八苦しながらアカウントをつくった。

ついでに言えば、私が日常的にネットを使うようになったのはここ3年ぐらいのことで、それ以前は携帯電話(ガラケー)さえ持っていなかった。

 

当初は純然たる「読書ブログ」にするつもりだったのだが、なにぶん遅読遅筆なため、いっこうに記事が書けない。しかたがないので、間をつなぐつもりで雑記的なことを書いていたら、なんだかそっちの方が多くなってしまった。

更新頻度は最初から週二回ぐらいで、だいたいいまと変わらない。

結局1年続けて記事数は100あまり。(内容はともかく)自分ではよくやった方だと思っている。

 

そんな零細ブログでも、ありがたいことに、記事を書けば必ず読んでくれるという人が少なからずいて、これはもう、ただただ感謝しかない。曲がりなりにも1年続けられたのはその人たちのおかげだ。

しかし、一見その気持ちと矛盾するようだが、読まれることに慣れすぎたかもしれない、という気持ちもある。

「おまえごとき零細ブログが『読まれることに慣れすぎた』だと? カタハライタイわ!」と思われるかもしれないし、それはもっともなのだが、しかし本当の気持ちだ。

 

最初の頃はなかなか読んでもらえず、「この文章を誰が読んでくれるのか、読んでくれる人はいるのか」と不安になった。

それでも記事を重ねるうちに1人2人と読者(フォロワー)になってくれる人がいて、とりあえず、書けば誰かが読んでくれるようになっていった。

そうなると今度は欲が出てきて、もっとたくさんの人に読まれたい、pv数を増やしたいと思うようになった。まあ、残念ながらそれはあまり成功してはいないけれど、さすがに最初の頃に感じていたような「この文章を誰が読んでくれるのか、読んでくれる人はいるのか」という不安はなくなった。

けれど、その不安はなくすべきではないような気がする。

 

「投瓶通信」というものがある。

空き瓶に手紙を入れて海に流すというアレだ。

いつ、誰に読まれるかわからない、いや、そもそも読まれるかどうかさえわからない不確かな手紙。

不特定多数の人に向けて何かを書くというのは、多かれ少なかれ、この「投瓶通信」のようなものではないかと思う。

 

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昔、「書くこと」と「読むこと」が紙の上だけで行われていた頃、両者の間には大きな隔たりがあった。書かれたものが読む人に届くまでにはいくつもの段階があったし、なによりも時間がかかった。書いた人は、書いたものが読まれたかどうかを確認することなどほとんどできなかったはずだ。

ネットの時代になると、その隔たりはずっと小さくなった。ネットという手段が、「書いて、公表すること」のハードルを下げたともいえる。その気になれば、誰もが「発信者」になれる。なによりも反応が早いし、それがダイレクトに返ってくる。

文章を書いて、それをブログなりSNSなりで公表し、顔も名前も知らない人たちに読まれる。それが当たり前で日常的な行為になっている。

しかし、それは本当に「日常的」なことなのか? 私には、それはとても非日常的なことのように思われる。誇張を承知で言えば、なにか奇跡的なことにさえ思われるのだ。たまたま砂浜で手紙が入った瓶を拾うことのように。

私がネットを使うようになってまだ日が浅いからそう感じるのだろうか。

それとも、ただの旧時代的なロマンチシズムなのだろうか。

 

……うーん、どうもうまく書けないな。本当はもっと論理的にビシッと書きたかったのだが、「意余って言葉足らず」というか、いまの私には手に余る課題のようだ。

このブログが2周年を迎えられたら、その時にまた考えようか。

 

最後になったけれど、いつも読んでくださるみなさんへ。

本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

それから、いつか、どこか、ネットの浜辺で偶然この文章を拾って読んでいるあなたへ。

はじめまして。

あなたがこのブログを気に入ってくれると嬉しい。

  

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