何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

支えるもの

 

元日と2日は仕事だった。そして3日から3連休。

2日、仕事から帰ってきて、夜中から明け方までひたすら無料配信のアニメを見続ける。3日、起きたのは昼過ぎ。今度はひたすら無料の漫画を読み続ける。

怠惰だ。怠惰にも程がある。

 

その無料漫画の中にヒカルの碁があった。

4日間限定で10巻まで無料で読める。全部で23巻だから半分弱だ。

 

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10巻はプロ試験の本戦も最終盤、あとは上位者同士の対局を残すのみ。はたしてヒカルはプロ試験を突破することができるのか? って、もう知ってるんだけど、先の展開を知っていても物語に引き込まれてしまう。

今回読み返して一番印象に残ったのは、主人公のヒカルではなく、先輩で同じくプロ試験を受けている伊角だ。

伊角はヒカルとの対局でミスをして反則負けになり、そこから調子を崩して連敗してしまう。彼はプロに匹敵する実力を持ちながら、少しメンタル的に弱いところがあってまだプロ試験に合格できずにいる。今年も自滅するかと思われたが、越智との対局で強い気持ちを取り戻す。

 

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手元に本がないので、ひょっとしたら私の記憶違いかもしれないが、たしか物語の終盤(北斗杯編)でヒカルも同じようなことを言っていたと思う。

 

「オレの碁がオレをささえている」

 

仕事でもなんでもいいんだが、人は自信をなくしたり、迷ったり、自分を見失ったりする。

そんなときその人を支えるのは、結局、それまでやってきたこと、積み重ねてきたものだ。だからこそ人は毎日を真摯に生きなければならない。(怠惰な私が言ってもあまり説得力はないけれど)

例えばブログ。

ブログをやっていて、書き続けるのがしんどくなったり、「こんなの書いてなんの意味があるんだよ」と思ったりすることもあるだろう。そんなとき気持ちを支えてくれるのは、いままで積み重ねてきた記事そのものではないだろうか。だから一つ一つの記事をいい加減にはできない。(自戒)

「オレのブログがオレをささえている」

おおげさな言い方だけど、いつかそんなふうに思えるようになるだろうか。

 

うーん、あんまりゴロゴロしているので、かえって体の調子がおかしくなってきた。

このまえ書いたばかりだが、まさしく「小人閑居して不善をなす」状態だ。

もっとも私の場合、「不善」というよりは「不健全」なんだけど。

 

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新年の挨拶

 

  何となく、

  今年はよい事あるごとし。

  元日の朝晴れて風無し。 (石川啄木

 

あけましておめでとうございます。

旧年中はたいへんお世話になりました。

今年もよろしくお願いします。

 

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 ……と、挨拶も済んだところで、今年のこのブログのことを考えてみる。

といっても、去年となにも変わらない。つまりは現状維持だ。

現状維持という言葉はあまり良いイメージで使われない。変化を望まず、ただ怠惰に現行のシステムに乗っかっているという感じがする。しかし実際は、現状を維持することは何もしないことではない。何もしなければ周りの環境の変化に流されてしまう。

たとえていえば、流れる川の中で同じ場所に留まり続けるようなもので、けっこうエネルギーが必要なのだ。

このブログはだいたい週に2回ぐらいの更新頻度だが、それだって気を抜けば維持できなくなる。私は怠惰で、易きに流れがちなのでなおさらだ。

そういうわけで、当面の目標は「積極的現状維持」といったところ。 

 

ただ、記事の内容にはちょっと考えるべきところがある。

このブログはもともと「読書ブログ」として始めたもので、読んだ本のことを記事にすれば、もっとたくさん本を読むようになるかもしれないと思っていたのだが、結果は逆で、書くことに気持ちと時間を取られて、読むことがおろそかになってしまった。これではいけない。本末転倒だ。

なので、今年はもっとたくさん本を読んで、本に関する記事を多めにしたい。

 

と、年始にあたってこんなことを考えたのだが、私は有言「不」実行なので、どうなることか。

とにもかくにも、ブログを始めた頃の初心を忘れずに、今年も路地裏の古本屋のようにひっそり細々と続けていくつもりなので、おつきあいのほど、よろしくお願いします。

 

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あ、それと、思うところあって試験的に「コメント欄」(承認制)を設置することにしました。まだ「ブログのマナー」(というか「ネットのマナー」)に疎いところがあって、いろいろ失礼をするかもしれませんが、ご用の方はご利用下さい。

 

今週のお題「2020年の抱負」 

 

タバコに関する雑感

 

先日、職場の食堂(休憩室)からタバコの自動販売機が撤去された。

いまのご時世から考えると「まだあったの?」という気もする。

 

私自身はタバコを吸わない。

というか、生まれてこのかた吸ったことがない。これは私の年代(今50歳)の男としてはけっこう珍しいことかもしれない。

成人したら一度ぐらいは試してみる人が多いのではないかと思う。そこから本格的な喫煙者になるか、自分には必要ないものだと思うかは人それぞれだが、せっかく喫煙できる年齢になったのだから、とりあえずその権利(?)を行使してみたいと思うのではないか。

私が成人した頃は、タバコはまだ「かっこいいもの」だったような気がする。まあ、そのへんは個人の感覚の違いもあるだろうけど、少なくとも私はそう思っていた。

でも私は吸わなかった。特別に健康志向が強かったわけではない。なぜだか自分でもよくわからない。タバコを吸い始めるタイミングを逃した、という感じだ。

いまのところ世の中では、タバコは「健康に悪いもの」という認識なのだと思うが、これがさらに「かっこ悪いもの」と思われるようになれば、ますますタバコを吸う人は少なくなるだろう。(それとも、すでにそうなっているのだろうか?)

若い人では、一度もタバコを吸ったことがないというのはもう珍しいことではないのかもしれない。

              

自分ではタバコを吸わないが、人が吸っているタバコの煙は吸っている。受動喫煙というやつだ。

子どもの頃は父親がまだタバコを吸っていて(たしか60歳ぐらいでやめたはずだ)、よくその煙が居間に漂っていたので、私もそれを吸い込んでいた。(ちなみに銘柄は『エコー』だった)

また20代の一時期、恥ずかしながら「やさぐれた生活」を送っていて、昼過ぎから閉店時間までパチンコ屋に入り浸っていた。(午前10時の開店から行かなかったのは、その時間に起きれなかったからだ)当時のパチンコ屋はタバコの煙がもうもうと立ち込めていて、30分もいれば全身がタバコ臭くなったものだ。

いまでこそ受動喫煙が問題になっているが、昔は吸わない人間の方が立場が弱かったような気がする。

 

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最近ではテレビドラマや漫画の中の喫煙シーンにも気をつかわなければならなくなったと聞く。

漫画の中のタバコというと、私が最初に思い出すのは森田まさのりの『ろくでなしBLUES』だ。

いわゆる「不良」高校生を描いた漫画だが、登場人物が当たり前のようにタバコを吸っている。特に私が好きなのは、大阪の川島と闘う前に、かつて敵同士だった薬師寺、葛西、鬼塚が一本のタバコをまわし喫みする場面だ。

「不良」だから当たり前なのかもしれないが、いまの常識から考えればとても挑発的な漫画に思える。『ジャンプ』での連載が1988年から97年なのだが、当時はなんの問題もなかったのだろうか。いまの『ジャンプ』では、こういう描写は無理なんじゃないかと思う。(もっとも、言うほどいまの『ジャンプ』を知らないけれど)

いまの『ジャンプ』といえば、『ワンピース』のサンジはまだタバコを吸っているだろうか。最近はあまりちゃんと読んでなかったのでよく覚えていないが、もしサンジがタバコを吸えなくなる時が来たら、世の中がさらに窮屈になったということなのかもしれない。

 

最初に書いたように、私はタバコを吸わないので、この世からタバコがなくなったとしてもいっこうにかまわない。

けれど、誰もタバコを吸わなくなった世の中を想像すると、なんだかちょっとつまらない感じがするのはなぜだろう。

 

 

クリスマスのジレンマ

 

クリスマスですか。

毎年この時期になると複雑な気持ちになる。

ひとつには、いい大人がなに馬鹿騒ぎしてんだよ、という気持ちがある。さすがにいまさら「キリスト教徒でもないのに……」とは言わないが、それにしても浮かれすぎだろ、いいかげん大人になれよ、と思う。

一方で、みんなわかった上で楽しんでるんだよ、それにいちいちケチつける方がよっぽど大人気ない。一緒に楽しめばいいじゃない、とも思う。

クリスマスに対してどういう態度をとっていいのか、いまだによくわからない。

 

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そんなふうに世の中との「温度差」を感じた時には、ふと、高校の漢文の授業で習った「漁父辞」(ぎょほのじ)のことを思い出す。(以下、多少の脚色あり)

都を追われた屈原(くつげん)が、一人の漁師から声をかけられる。あんたは確か偉いお役人、こんな所で何をしていなさる?

屈原が答える。世の中は濁っていて、自分一人だけ清らかだ。世間の奴らはみんな酔っぱらっていて、自分一人だけ素面なんだ。馬鹿ばっかりでうんざりだ。やってられないよ。だから仕事を辞めたのさ。

すると漁師がいう。本当の聖人というのは、世の中に合わせたやり方ができるものだ。世の中が濁っているのなら、それをかき回せばいい。みんなが酔っているというのなら、自分も少し飲んでみたらいい。なにも一人だけ深刻な顔をしなくてもいいじゃないですか。

屈原が答える。嫌だよ。風呂上りの清潔な体に、汚れた服を着ることができるかね? まっぴら御免だ。そんなことなら、死んだ方がましだ。

漁師は笑って、そんなもんですかねぇ、といって去っていく。澄んだ水では大事な冠の紐を洗って、濁った水では汚れた足を洗えばいい。それだけのこと……。

 

漁師がいう「聖人」は、清濁あわせて飲むことができるような器の大きな人間である。

これに対して屈原は、不純なものは受け付けない潔癖な人間だといえる。

どっちが良いとか悪いとかいう話ではないけれど、屈原のような人の方が生きていきにくいのは確かだ。(実際に屈原は絶望の果てに入水自殺したらしい)

 

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横山大観屈原


で、クリスマスだ。

世の中に合わせるつもりはないけれど、小さなケーキでも買ってみようかね。

「ベ、別にクリスマスだからじゃないからね! 甘いものが食べたいだけだからね‼︎」

とか、ツンデレっぽいことを言いながら。

  

今週のお題「クリスマス」

 

 

詩歌再入門

 

ときどき詩や短歌を引用しているぐらいだから、そういうものが好きではあるのだが、その一方で、少しばかり苦手意識も持っている。

いや、苦手というのは正確ではないな。なんというか、詩歌を前にすると少し緊張してしまい、小説やエッセイを読むときのようにリラックスした気持ちになれないのだ。

たぶん私の中で、詩歌は「難しいもの」だからがんばって「理解しなければならない」という気持ちが強すぎるのかもしれない。学校の国語の授業の続きのような。

「考えるな、感じろ」じゃないけど、もっと、こう、気楽に付き合いたいといつも思っていた。

 

では、どうすればもっと詩歌と親しくなれるのか?

やっぱりいろいろな詩歌をたくさん読んでいくしかないのではないかと思う。馬鹿みたいに当たり前のことを言っているけれど、結局のところ経験値を上げるしかないのではないか。

いままでは、ちょっとおもしろそうだと思ったものを、つまみ食いするようにちょこちょこ読んできた。それはそれで楽しいのだが、もう少し意識的に幅広く、体系的に、でも勉強臭くならないように読んでいきたい。

 

そう考えて、前から欲しいと思っていた本があったのだが、最近ヤフオクに手頃な値段で出ているのを見つけて思い切って買った。それがこちら。

『日本の詩歌』全30巻+別巻1中央公論社、1967-70) 

 

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近代以降の詩人と詩を網羅した文学全集だ。他の同様の全集よりも短歌や俳句に多くの巻を当てているように思う。

この全集には文庫版があって、置き場所の問題からそっちの方を考えていたのだが、結局元版の単行本で買った。

単行本は薄紫が基調になっていて、それがなんとなく乙女な感じ(?)でいい。ちなみに本文ページも、下段の「注」が同じく薄紫で印刷されていて、なかなか凝っている。

 

ついでに言えば、値段は(送料込みで)ユニクロの「ウルトラライトダウン」のジャケットとほぼ同じくらい。

いやあ、いい買い物をした、古本は本当に安上がりでいい趣味だなあ、と自分に言い聞かせているところだ。もっとも、これが本当の意味で「いい買い物」になるためには、積まずにちゃんと読まなければならないのだが。

まあ、ちょっと早いけれど、今年のセルフ・クリスマスプレゼントということで。

さて、来年のセルフ・お年玉では何を買おうかな……。

 

今週のお題「2019年買ってよかったもの」

 

 

小人閑居して不善をなす

 

忙しい……。

予想していたように12月に入って猛烈に忙しく、後半になってそれに輪をかけて忙しくなった。心身ともに疲弊して、青息吐息の毎日だ。

と言いながら、こうしてブログを書くぐらいの時間と気力はあるのだから、死ぬほど忙しいというわけではない。でも死なない程度に忙しい。

 

しかし、人間忙しいぐらいがちょうどいいのかもしれないな、と思ってみたりもする。

私の好きな言葉というか、本当にそうだなと深く納得する言葉に、

小人(しょうじん)閑居して不善をなす

というのがある。意味としては、「つまらない人間は、暇を持て余してるとロクなことをしない」といったところ。[注]

仮に私が仕事を辞めて「毎日が日曜日」状態になったとする。(金銭的な問題は無視する)

最初のうちは、前からやりたかったいろいろなことをやって充実した日々を送ることができるかもしれない。しかし、そのうちだんだんと生活がだらしなく乱れてきて、グダグダの毎日を過ごすようになるだろう。そして結局時間を持てあますことになる。たぶん、いや、必ずそうなる。

きちんと自分を律することができる人ならいいが、それができない人は、ある程度外部からの制約があった方が生きていきやすいのかもしれない。残念ながら。

 

忙中閑あり。

忙しい忙しいと不平不満を言いながら、わずかな暇を見つけて好きなことをするぐらいがちょうどいいのかもしれない。

だって「小人」だもの。

 

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[注]もともとは「閑居」とは「独りでいること」という意味だったらしい。つまり「つまらない人間は、独りでいる(他人の目がない)とロクなことをしない」という意味だった。それがいつのまにか「閑居」=「暇を持て余す」という意味になって、こちらの方が一般的になったらしい。まあ、独り者の私にとっては、どちらにしても耳の痛い言葉だ。

 

 

人間の《芯》

 

  去年今年貫く棒の如きもの(高濱虚子)

 

私が学生のとき、文学の科目で半年ほど俳句についての講義があった。近現代の有名な俳人の句を数句ずつ取り上げて解説していくような授業だ。

当時の私は俳句というものにまったく興味がなくて、授業もただ単位を取るために出席しているようなものだった。だからその時に誰のどんな句が取り上げられていたのかほとんど覚えていないのだが、ただひとつだけ、上に挙げた虚子の句だけは覚えている。よほど印象に残ったのだろう。

 

素人感想を言わせてもらえば、単純な句だけど静かな迫力がある。喩えて言えば、人の身の丈ほどの大きな筆で、渾身の力をこめて書いた漢字の「一」のような。

「去年今年(こぞことし)」は新年の季語で、これはいいとして、「貫く棒の如きもの」とはなにか。

単純に考えれば時間の連続性と言えるけれど、これはその時間の中にあっても変わらない一つの精神のありようだと思う。一言で言えば「信念」というか、一人の人間の《芯》のようなものだ。

 

学生の当時、ぼんやりと進みたい方向のようなものはあったけれど、それに向かって真摯な努力もせず、ただダラダラと毎日を生きていた。

目標に向かって努力している人たちを横目に見ながら、ちょっと斜に構え、「俺だってその気になればできるけど、まあ、今はまだその時じゃない」みたいな余裕を見せていた。自分にはなにか特別な才能があるのだと、自分自身にそう思い込ませようとしていた。そんなものがないことはわかっているくせに。要するに、世間知らずのクソガキだったのだ。

 

上に挙げた虚子の句が印象的だったのは、そんな私に向かって、

お前の生活に、人生に「信念」はあるか? お前に、一本通った人間の《芯》はあるか?

という問いを突きつけたからではなかったか。今から思えば、だけど。

 

あれから30年……。(きみまろ調)

私もそれなりに経験を積んで、昔に比べればいくらかマシな人間になったような気はする。

しかし、人間の《芯》といえるようなものは、まだない。 

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