何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

クリスマスのジレンマ

 

クリスマスですか。

毎年この時期になると複雑な気持ちになる。

ひとつには、いい大人がなに馬鹿騒ぎしてんだよ、という気持ちがある。さすがにいまさら「キリスト教徒でもないのに……」とは言わないが、それにしても浮かれすぎだろ、いいかげん大人になれよ、と思う。

一方で、みんなわかった上で楽しんでるんだよ、それにいちいちケチつける方がよっぽど大人気ない。一緒に楽しめばいいじゃない、とも思う。

クリスマスに対してどういう態度をとっていいのか、いまだによくわからない。

 

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そんなふうに世の中との「温度差」を感じた時には、ふと、高校の漢文の授業で習った「漁父辞」(ぎょほのじ)のことを思い出す。(以下、多少の脚色あり)

都を追われた屈原(くつげん)が、一人の漁師から声をかけられる。あんたは確か偉いお役人、こんな所で何をしていなさる?

屈原が答える。世の中は濁っていて、自分一人だけ清らかだ。世間の奴らはみんな酔っぱらっていて、自分一人だけ素面なんだ。馬鹿ばっかりでうんざりだ。やってられないよ。だから仕事を辞めたのさ。

すると漁師がいう。本当の聖人というのは、世の中に合わせたやり方ができるものだ。世の中が濁っているのなら、それをかき回せばいい。みんなが酔っているというのなら、自分も少し飲んでみたらいい。なにも一人だけ深刻な顔をしなくてもいいじゃないですか。

屈原が答える。嫌だよ。風呂上りの清潔な体に、汚れた服を着ることができるかね? まっぴら御免だ。そんなことなら、死んだ方がましだ。

漁師は笑って、そんなもんですかねぇ、といって去っていく。澄んだ水では大事な冠の紐を洗って、濁った水では汚れた足を洗えばいい。それだけのこと……。

 

漁師がいう「聖人」は、清濁あわせて飲むことができるような器の大きな人間である。

これに対して屈原は、不純なものは受け付けない潔癖な人間だといえる。

どっちが良いとか悪いとかいう話ではないけれど、屈原のような人の方が生きていきにくいのは確かだ。(実際に屈原は絶望の果てに入水自殺したらしい)

 

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横山大観屈原


で、クリスマスだ。

世の中に合わせるつもりはないけれど、小さなケーキでも買ってみようかね。

「ベ、別にクリスマスだからじゃないからね! 甘いものが食べたいだけだからね‼︎」

とか、ツンデレっぽいことを言いながら。

  

今週のお題「クリスマス」