何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

「ただ知りたいだけだ」

 

前回、岡崎武志、古本屋ツアー・イン・ジャパン編『野呂邦暢 古本屋写真集』ちくま文庫、2021 )という本について書いた。

 

paperwalker.hatenablog.com

 

この本の元版は2015年に盛林堂書房から刊行されたもので、このちくま文庫版はそれを増補再編集している。その増補として、本が出てくる野呂の短いエッセイが9篇収録されているのだが、これがすごくいい。

 

そのエッセイの一つに「蔵書票」と題されたものがある。

わずか3ページの文章なのだが、それを読んで私はなんだか胸が熱くなった。

そこには中学生の頃の野呂自身と、本好きだった彼の叔父さんが出てくる。戦争と家庭の事情でアカデミックな教育が受けられなかったというその叔父さんは、気になることはとことん調べなければ気が済まないという性分の人だったらしい。

 

ミネルバの梟は夕暮れに飛ぶ」という言葉の出典を若い叔父は知りたがって、かたはしから事典類をひっくり返し、図書館に出かけて文献を当っていたのを私は知っていた。(……)町を二人で散歩しているとき、ふいに立ちどまって虚空をにらみ、口の中でぶつぶつ呟いていたかと思うと慌しく自宅に引き返して辞書のページをめくることがあった。

「それを知ってどうする」と私はたずねた。

「ただ知りたいだけだ」

 と独身の叔父は答えた。(p.138-139、太字は引用者による)

 

1937年(昭和12年)生まれの野呂が中学生の頃というからまだ戦後間もない時期で、場所は長崎県諫早市だろう。

書店であれ図書館であれ、その時期のその場所での本をめぐる環境が恵まれたものだったとは思えない。その中で叔父さんは知りたいことを知るために奔走する。今みたいに、いつでもどこでも、なんでも検索して簡単に情報を得られる時代ではない。

しかもその知りたいことというのが、およそ現実では何の役にも立たないようなことなのだ。(失礼ながら)たぶん親戚の中でも変わり者と思われていたのではないだろうか。「それを知ってどうする」と問いたくもなる。

それに対して叔父さんは一言、「ただ知りたいだけだ」と答えるのである。

何かの目的があって知りたいのではない、それを知ったからといって何がどうなるわけでもない、ただ知りたい。だから調べる、学ぶ、本を読む。

その答えには「知ること」「学ぶこと」に対する清々しいまでの(そしてある意味痛々しいまでの)純粋さがあるような気がする。

 

もし誰かに「あなたは何のために本を読んでいるのか? それで得た知識が何の役に立つのか?」と問われたら、私もこう答えたい。

「ただ知りたいだけだ」と。