何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

人間の《芯》

 

  去年今年貫く棒の如きもの(高濱虚子)

 

私が学生のとき、文学の科目で半年ほど俳句についての講義があった。近現代の有名な俳人の句を数句ずつ取り上げて解説していくような授業だ。

当時の私は俳句というものにまったく興味がなくて、授業もただ単位を取るために出席しているようなものだった。だからその時に誰のどんな句が取り上げられていたのかほとんど覚えていないのだが、ただひとつだけ、上に挙げた虚子の句だけは覚えている。よほど印象に残ったのだろう。

 

素人感想を言わせてもらえば、単純な句だけど静かな迫力がある。喩えて言えば、人の身の丈ほどの大きな筆で、渾身の力をこめて書いた漢字の「一」のような。

「去年今年(こぞことし)」は新年の季語で、これはいいとして、「貫く棒の如きもの」とはなにか。

単純に考えれば時間の連続性と言えるけれど、これはその時間の中にあっても変わらない一つの精神のありようだと思う。一言で言えば「信念」というか、一人の人間の《芯》のようなものだ。

 

学生の当時、ぼんやりと進みたい方向のようなものはあったけれど、それに向かって真摯な努力もせず、ただダラダラと毎日を生きていた。

目標に向かって努力している人たちを横目に見ながら、ちょっと斜に構え、「俺だってその気になればできるけど、まあ、今はまだその時じゃない」みたいな余裕を見せていた。自分にはなにか特別な才能があるのだと、自分自身にそう思い込ませようとしていた。そんなものがないことはわかっているくせに。要するに、世間知らずのクソガキだったのだ。

 

上に挙げた虚子の句が印象的だったのは、そんな私に向かって、

お前の生活に、人生に「信念」はあるか? お前に、一本通った人間の《芯》はあるか?

という問いを突きつけたからではなかったか。今から思えば、だけど。

 

あれから30年……。(きみまろ調)

私もそれなりに経験を積んで、昔に比べればいくらかマシな人間になったような気はする。

しかし、人間の《芯》といえるようなものは、まだない。 

f:id:paperwalker:20191210113823j:plain