何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

あの日に帰りたい?

 

今週のお題「平成を振り返る」……ということだが、正直なところ、あまり振り返りたくない。

 

平成の前半ぐらいの間、私はフリーターをしていた。

学校を卒業した頃はまだバブルの余韻みたいなものがあって、ちゃんと就職しようと思えばできたんだと思う。しかし、なんだかんだあった後に、結局フリーターみたいになってしまった。

フリーターという言葉は昭和の終わりぐらいから使われ始めて、平成3年には『広辞苑』(第4版)にも載ったらしい。その軽さというか、薄っぺらな感じも含めて、平成らしい言葉と言えるかもしれない。

 

その後は知っての通り不況になった。新卒でさえ「就職氷河期」などと言われていたのだから、私など氷漬けにされたネアンデルタール人みたいなものだ。

いや、世の中のせいにするつもりはない。

確かに不況で割りを食った人は多かったと思うが、私の場合は個人的な理由だ。

モラトリアムの度が過ぎたということだ。

 

ときどき、20歳ぐらいに戻りたいと切実に思うことがある。そのくらいから人生をやり直したい、と。

そうしたら今度こそ勤勉に、向上心を持って、誠実に生きよう。もっと社交的になって、できれば要領よく生きたい、と。

しかし、時間を戻して人生をやり直すことができたとしても、結局今とたいして結果は違わないかもしれない、とも思う。多少の違いはあるだろうけど、また同じような道を歩きそうな気もする。

人間の性根なんて、そうそう変わるものではない。

 

人生でやり直せることなんか何一つないのかもしれない。

過ぎた時間はどうすることもできない。

昨日の夜食べたラーメンを、カレーに変えることはできない。

しかし、今夜カレーを食べることはできる。

その意志さえあれば。

 

なんだか愚痴みたいになってしまった。

忘れてください。

 

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次の本につづく

 

今、荻原魚雷『古書古書話』本の雑誌社、2019)を読んでいる。

 

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私は荻原さんの書くものが好きで、本はもちろん、ブログ『高円寺文壇』の更新も楽しみにしている。

荻原さんの文章はちょっとテンション低めというか、(失礼かもしれないが)ときどきくたびれたような感じさえするのだが、それが読んでいて妙にしっくりくる。

 

『古書古書話』は『小説すばる』に2008年から2018年まで10年余にわたって連載されていたエッセイを中心に編まれている。

1つが4ページ(原稿用紙6枚)ほどの長さで、それが100篇あまり収録されている。スキマ読書にはもってこいの本だ。

タイトルの通り、古本を中心にした話なのだが、そこで採り上げられた本はバラエティに富んでいるというか、実に雑多だ。

その著者を挙げていくと、吉行淳之介木山捷平山口瞳といった日本の作家、アップダイクやグレアム・グリーンのような外国の作家、竹中労虫明亜呂無のような文筆家、松本零士藤子不二雄赤塚不二夫といった漫画家、それだけではない、関根潤三(元プロ野球選手・監督)、岸部四郎(古書マニアのタレント)、横井庄一終戦を知らなかった元日本兵)といった文筆を本業としない人たち、何者なのかよくわからない人たち、無名の青年の日記などなど……。

これでもごくごく一部だ。

文学好きとして納得できる本もあれば、「こんなのよく買うなぁ」と思う本もある。

世の中にはこんなにいろいろな本があるのかと、いまさらのように思ってしまう。

 

これらの本はそれぞれ何の関係もなく存在していたものだ。

それが荻原さんが読んだことによってつながって、関係が生まれたことになる。

読者とは本と本とをつなげる存在でもあるのだ。

本は一冊で完結しない。一冊の本は無数の本につながっている。つながっているのは本だけではない。文学、実用書、漫画、音楽、将棋、野球、釣り、家事。ジャンルはちがっても掘り下げていけば、かならずどこかでつながる。人が歩いた後に道ができるように読書の後にも道ができる。(中略)すぐにはつながらなくても、忘れたころにいつの間にかつながっていることもよくある。(p.452)

 

人と本がつながり、本と本がつながり、(本を介して)人と人がつながっていく。

そうやって世界が広がっていく。

読書の楽しさはそこにある。

 

 

路地裏の古本屋のように

 

ブログを始めて1ヶ月が経った。

多くのブロガーさんは、始めて1ヶ月とか3ヶ月、あるいは記事が50件とか100件になった「節目」に自分のブログを振り返っているので、私もそうしようと思う。

 

といっても「数字」は問題にならない。

そもそも記事の件数が少なすぎる。(この記事を含めてちょうど10件)だいたい一週間に2件のペースだ。

毎日更新している人から見ればお話にもならないペースだが、私にとってはこれでも上出来、むしろハイペースすぎるぐらいだ。

今後もこのくらいのペースで書けたらいいな、と思う。

 

収益というものもない。

もともとブログでお金を稼ぐという発想がないし、いまだにどういう仕組みでブログがお金になるのかもよくわからない。

 

アクセス数は合計で130ぐらい。

最初の1ヶ月で、これが多いのか少ないのかもよくわからない。(記事数が少ないし)

しかし、(のべ)130人が私の書いた文章を読んでくれたということに対しては、これはもう、恥ずかしさと感謝の気持ちしかない。

好きなことを好き勝手に書くだけ、とは思いつつ、やはり誰も読んでくれないのは寂しい。

最初の頃はアクセスがほとんどなかったので泣きたい気持ちだったが、記事が増えるにつれて、アクセス数も少しずつ増えてきた。

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ということか。(ちょっと違うか)

ましてや「スター」を付けてもらったり、「読者」になってもらったりしたことは望外の喜びで、うまく伝わらないかもしれないが、本当に嬉しいし、励まされる。

 

さて、肝心の記事の内容についてだが、これは不満というよりも、「どうしてこうなった?」といった感じだ。

当初は本の感想をメインに考えていたのだが、気がつけば雑記・雑文ばかり。感想を書いた本も、なぜか本来守備範囲外の時代小説だけ。始める前のイメージとかなり違っている。

しかし、これはまあ、これでもいいかな、という気もしている。

計画通りきっちりやるよりは(できないけど)、どこに流れ着くのかわからない方が書いている本人も飽きなくていい。

 

自分でブログを書くようになって、人のブログを読む時の「読み方」も少し違ってきた。

今までも人のブログを読むことは好きだったのだが、最近では内容はもちろん、文章の読みやすさやレイアウトの仕方、画像の使い方などを意識するようになった。

といっても、それを自分のブログの参考にするかというと、そうでもない。

私は自分の「個性」というものをあまり信用していないが、それでも、書き続けているうちに自分のスタイルみたいなものができればいいな、と思っている。

 

1日に何百ものアクセスがあるメジャーなブログは、例えるなら、駅ビルに入っている大型新刊書店のようなものだ。

店内は明るく活気があり、毎日溢れるほどの新刊が入ってくるし、多くの客がひっきりなしにやってくる。

それに比べて私のブログは、路地裏の古本屋といったところか。

埃っぽくて薄暗く、奥の帳場には仏頂面をしたオヤジが座って新聞を読んでいる。(あくまでも昭和の古本屋のイメージです)

客は1日に10人くるかどうか。誰も来ない日だってある。

しかし、古本屋は客が来なければ店をたたむしかないが、ブログは誰にも読まれなくても潰れることはない。(私の心が折れない限り)

 

この1カ月、私のブログを訪れてくれた皆さんにあらためてお礼を言います。

ありがとうございました。

これからも気が向いた時に覗いてみてください。

仏頂面して待っております。

 

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「今週のお題」に参加してみる

 

ブログを始めてそろそろ1か月が経つので、前から気になっていた「今週のお題」に参加してみる。(決して自分でネタを考えるのがめんどうになったからではない)

 

今週のお題「新生活おすすめグッズ」

グッズというわけではないが、私が勧めるのは家計簿をつけること。

これは独り暮らしと家族持ち、男性と女性を問わず大事なことだ。

「えぇ? めんどくせー」と思うかもしれないが、大丈夫、スジガネ入りの不精者の私が続けられるのだから、きっとあなたも続けられる。 

 

私は市販の家計簿ではなく、週単位のスケジュールノートを流用している。
 

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上の画像の上段は3つに区分されていて、上から

■  食費

■  趣味費(私の場合はほとんど本)

■  雑費(ガソリン代や消耗品、薬や衣服など、その他)

になっている。

その「食費」と「雑費」の内容を下の段にレシートから書き移す。

あとはその日の合計を書き、週が終われば右端に週の合計を出し、月が終われば別のページに月の合計を書き出す。

だいたいのお金の使い道がわかればいいので、必要以上に細かくしない方がいい。

他人に提出するレポートではないので、多少の間違いは問題ない。

これ以外に光熱費や通信費もあるが、そちらは通帳からの引き落としなので、月イチぐらいで通帳記入して確認するだけ。(この他に、突発的な出費や高額な出費も別にしている)

 

もちろん市販の家計簿やアプリを使ってもいい。

要は自分の生活や性格を考えて、続けられる方法を見つけることだ。

人の生活はそれぞれなので、家計簿だってそれぞれのやり方でいい。

 

家計簿をつけたからといってすぐにお金が貯まるわけではない。

しかし、昔流行したレコーディング・ダイエットと同じで、とりあえず数字を書き出しておくと、お金を使う時に意識の底の方でブレーキを踏むようになる。

これを続けていけば、いつの間にか無駄使いをしなくなる……かもしれない。

 

さて、初めて「今週のお題」で書いてみたけれど、けっこうおもしろかった。

普段はあまり意識しないようなことを文章にしてみるのは、初心者にはいい練習になる。

これからもときどき参加してみようと思う。(決してネタがないからでは……)

挑戦的なリスペクト 〜 荒山徹『徳川家康 トクチョンカガン』

 

この前読んだ隆慶一郎影武者徳川家康』の後に、荒山徹徳川家康 トクチョンカガン』(実業之日本社、2009  /  実業之日本社文庫、2012)を読んだ。

 

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この本の「あとがき」で作者は、

敬愛する隆先生の高みに少しでも迫ろうとの意気込みで書き始めた。(p.561) 

と書いているように、この作品は『影武者徳川家康』に対するリスペクトに溢れているが、これがなかなか野心的というか、挑戦的リスペクトなのだ。

例えるなら「横綱の胸を借ります」と言いながら、したたかに金星を狙っている若い力士のような。

 

物語は秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)から始まる。

朝鮮の僧兵として戦っていた元信(ウォンシン)は、作戦行動中に倭軍に捕まり捕虜となる。そこで殺されるべきところを、なぜか極秘裏に日本に移送され、徹底した日本人化教育を受ける。元信の容貌が徳川家康に酷似していたため、彼を家康の影武者に仕立てようというのだ。

時は流れ、関ヶ原合戦の朝。合戦の直前に家康が急死した! 元信は事態を悟られないように、自らが「家康」として采配を振るい、なんとか東軍を勝利に導く。

事実を知った嗣子秀忠は、まだ「家康」の存在は不可欠とし、そのまま元信を「家康」に仕立てる。

最初は従順に秀忠に従っていた元信だったが、次第に彼自身の野望のために暴走を始める。その野望とは、朝鮮人にとっての憎き仇敵である豊臣家を滅亡させることだった。

豊臣家との和睦を望む秀忠は、元信の野望を阻止すべく、ここに両者の暗闘が始まる。

 

この小説は、隆慶一郎の『影武者徳川家康』を反転させようとする。

秀忠の造形がいい例だ。『影武者』では陰湿・陰険の極みのように描かれていた秀忠が、この作品では風のように爽やかな男(!)として描かれている。

逆に家康の影武者である元信は、豊臣家と日本人への復讐に燃える男としてややブラックな感じだ。

 

家康が実は影武者だったとして、既知の歴史を反転してみせたのが隆慶一郎なら、その影武者が実は「朝鮮人」だったという大胆な〈ひねり〉を加えて、さらに反転させたのが荒山徹徳川家康 トクチョンカガン』と言えるだろうか。

真面目な歴史好きや家康ファン(?)は怒るかもしれないが、小説としてはアリだ。

 

こうした反転、あるいは相対化は、なにも小説的遊戯というだけではない。

それは勝者によって書かれる「歴史」(正史)に対する異議申立てでもあるのだ。

作者はやはり「あとがき」の中で次のように言っている。

だが勝者によって書かれた歴史は、絶対化かつ特殊化を志向するものであり、常に歴史を多角的、相対的、普遍的に眺める姿勢を忘れてはなるまい。(p.558)

 

勝者によって書かれた歴史、謂うところの正史に対抗するものとして稗史があり、その伝統を受け継ぐのが伝奇時代小説であろうかと思う。(p.559) 

 自らを「伝奇屋の端くれ」という作者の矜持がここに表れている。

 

 

紙幣の肖像

 

どうやら数年後には紙幣の肖像画が変更されるらしい。

 

肖像画の変更は2004年以来で、新しい肖像として渋沢栄一(1万円)、津田梅子(5千円)、北里柴三郎(千円)が検討されているという。

財務省が作った見本(イメージ)も見たのだが、うーん、いまひとつピンとこないというか、パッとしないというか……。

紙幣はその国の顔みたいなものだから、もっとわかりやすく日本をアピールできるものがいいのではないか。

 

そこで一つ提案がある。

政府は日頃「クール・ジャパン」とか言って日本の漫画やアニメを推しているのだから、ここはひとつ、肖像を手塚治虫のキャラクターで統一してみてはどうか?

 

千円札は、現行が野口英世なので、医者つながりでブラック・ジャック。(無免許だけど)

5千円札は「女性枠」ということで、『リボンの騎士』のサファイア。(男装だけど)

そして1万円札は当然アトムである。さらに現行の札の裏には鳳凰が描かれているので、ここには火の鳥を。

紙幣の四隅にヒョウタンツギとか入れてくれると嬉しい。

 

どうだろうか?

ここまでやれば世界中から注目されることは間違いない。

もっとも「クール・ジャパン」ではなく、「クレイジー・ジャパン」と言われるかもしれないが。

 

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呪いと読書

 

ある人からちょっと嫌なことを言われて気が塞いでいる。

言った人に悪気があるわけではなく、むしろ私のために言ってくれたのであり、また言葉の内容もしごく真っ当で常識的なことに過ぎないのだが、それが私を鬱屈とさせている。

 

「呪いのようだな」と思う。

 

大げさではなく、またオカルトでもない。呪いは普通にどこにでもある。

私のマイ定義(一般的かつ普遍的定義ではないかもしれないが、自分の中で通用している定義)では、「呪い」とは、

 

言葉、あるいは記号を用いて、他者の心身の自由を奪う、あるいは制限するもの

 

である。

 

例えば誰かが友達に悪ふざけで「死ね」と言ったとする。

もちろん本気ではないし、言われた方もそれを間に受けて死ぬわけではない。しかし、その言葉がトゲのように心に刺さり、心を不自由なものにしたとすれば、それは立派な呪いである。

ネガティヴな言葉だけではない。

誰かが誰かに「愛してる」と言ったとする。

言った人は真摯に誠実に言っている。しかし結果的にその「愛してる」が、言われた方の心や行動の自由を奪ったり制限したとすれば、それもまた呪いではないのか。

そう考えると、どんな言葉だって呪いになりうるし、世の中は呪いに満ち溢れている。

 

ではそのような呪いを解く方法はあるのか?

言葉によってかけられた呪いを解く(無効にする)ためには、自分の言葉を鍛えるしかない。

言葉を鍛えるためには、本を読むしかない。

 

だから私は本を読む。

誰かの呪いにかからないように。

誰かを不用意に呪いにかけてしまわないように。

すでにかけられている呪いを解くために。

 

 

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