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挑戦的なリスペクト 〜 荒山徹『徳川家康 トクチョンカガン』

 

この前読んだ隆慶一郎影武者徳川家康』の後に、荒山徹徳川家康 トクチョンカガン』(実業之日本社、2009  /  実業之日本社文庫、2012)を読んだ。

 

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この本の「あとがき」で作者は、

敬愛する隆先生の高みに少しでも迫ろうとの意気込みで書き始めた。(p.561) 

と書いているように、この作品は『影武者徳川家康』に対するリスペクトに溢れているが、これがなかなか野心的というか、挑戦的リスペクトなのだ。

例えるなら「横綱の胸を借ります」と言いながら、したたかに金星を狙っている若い力士のような。

 

物語は秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)から始まる。

朝鮮の僧兵として戦っていた元信(ウォンシン)は、作戦行動中に倭軍に捕まり捕虜となる。そこで殺されるべきところを、なぜか極秘裏に日本に移送され、徹底した日本人化教育を受ける。元信の容貌が徳川家康に酷似していたため、彼を家康の影武者に仕立てようというのだ。

時は流れ、関ヶ原合戦の朝。合戦の直前に家康が急死した! 元信は事態を悟られないように、自らが「家康」として采配を振るい、なんとか東軍を勝利に導く。

事実を知った嗣子秀忠は、まだ「家康」の存在は不可欠とし、そのまま元信を「家康」に仕立てる。

最初は従順に秀忠に従っていた元信だったが、次第に彼自身の野望のために暴走を始める。その野望とは、朝鮮人にとっての憎き仇敵である豊臣家を滅亡させることだった。

豊臣家との和睦を望む秀忠は、元信の野望を阻止すべく、ここに両者の暗闘が始まる。

 

この小説は、隆慶一郎の『影武者徳川家康』を反転させようとする。

秀忠の造形がいい例だ。『影武者』では陰湿・陰険の極みのように描かれていた秀忠が、この作品では風のように爽やかな男(!)として描かれている。

逆に家康の影武者である元信は、豊臣家と日本人への復讐に燃える男としてややブラックな感じだ。

 

家康が実は影武者だったとして、既知の歴史を反転してみせたのが隆慶一郎なら、その影武者が実は「朝鮮人」だったという大胆な〈ひねり〉を加えて、さらに反転させたのが荒山徹徳川家康 トクチョンカガン』と言えるだろうか。

真面目な歴史好きや家康ファン(?)は怒るかもしれないが、小説としてはアリだ。

 

こうした反転、あるいは相対化は、なにも小説的遊戯というだけではない。

それは勝者によって書かれる「歴史」(正史)に対する異議申立てでもあるのだ。

作者はやはり「あとがき」の中で次のように言っている。

だが勝者によって書かれた歴史は、絶対化かつ特殊化を志向するものであり、常に歴史を多角的、相対的、普遍的に眺める姿勢を忘れてはなるまい。(p.558)

 

勝者によって書かれた歴史、謂うところの正史に対抗するものとして稗史があり、その伝統を受け継ぐのが伝奇時代小説であろうかと思う。(p.559) 

 自らを「伝奇屋の端くれ」という作者の矜持がここに表れている。