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歴史を読みかえる〜隆慶一郎『影武者徳川家康』

昨年の暮れから今年の正月の間、隆慶一郎の『影武者徳川家康』(新潮社、1989 /新潮文庫、1993)を読んでいた。

 

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二十数年ぶりの再読だったのだが、これがすごくおもしろかった。充実の読書時間だった。

 

慶長5年、関ヶ原合戦の当日、徳川家康は西軍の手の者によって暗殺された! 家康の影武者だった世良田二郎三郎は事態を収拾すべく、自ら本物の「家康」として采配を振るい、なんとか東軍を勝利に導く。

事実を知った嗣子秀忠は、まだ「家康」の存在は不可欠として、そのまま二郎三郎を「家康」に仕立てる。

しかし天下が完全に徳川家のものになれば、用済みとして殺されることは必定の二郎三郎は、完璧に「家康」を演じつつ、一方で秀忠の思惑通りにはさせまいと抵抗する。

こうして二郎三郎と秀忠の長きにわたる暗闘が始まる。

 

この小説のおもしろさは、二郎三郎が様々な方法で秀忠を出し抜くところであり、その知略謀略を使った頭脳戦にある。

二郎三郎はいわゆるたたき上げの「いくさ人」であり、また石田三成の旧臣島左近や、箱根の風魔衆の協力を得ている。

本物の戦をほとんど知らず、まだ治者の器でもない秀忠はことごとく苦汁を舐めさせられることになる。(それにしても、この小説に描かれている秀忠は酷い。残忍で冷酷、臆病で卑怯者で猜疑心のかたまり。いくら「敵役」でもここまで悪し様に描かれているとちょっと気の毒になる)

 

頭脳戦だけではない。

甲斐の六郎(家康を殺した男だが、二郎三郎に味方する)率いる風魔衆と、柳生宗矩(秀忠の側近)率いる裏柳生の戦闘シーンも読み応えがある。

「時代小説は活劇だ!」という読者も充分楽しめると思う。

 

さらにもう一つ、この小説をスリリングなものにしているのは、作者が様々な資料を使いつつ、その矛盾を突いて歴史を読みかえようとするところだ。

例えば家康の子供に対する態度。

家康は自分の子供に対して冷淡であったと言われるが、関ヶ原以降に生まれた子供に対しては、人が変わったように溺愛したらしい。普通なら、家康も歳をとってからの子供はかわいいのか、と思うところだが、作者はこれを本当に人が変わった、つまり影武者にかわったからだとする。

これは一例に過ぎないが、こうして(関ヶ原以降の)「家康=影武者」という〈仮説〉を立てて、この〈仮説〉を使って家康の事跡を読み直し、ひいては歴史を読みかえようとする。

その過程がおもしろい。

 

文庫本にして全3巻、総ページ数1500余の大作だが、読み終わった時には共に闘いぬいたような充実感が残る。そういう小説だ。