何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

スキマ読書


誰が書いていたのか忘れたが(ダニエル・ペナック?)、読書の時間というのは本来「盗んだ時間」なのだそうだ。

読書をする時間がない、という人は多いが、もともと人間の生活に読書をする時間というものはない。それでも読書がしたいなら、生活のどこかから時間を盗んでこなければならない。だから読書の時間とは「盗んだ時間」なのだ……といった主旨だったと思う。

 

学生時代はともかく、社会人になると読書のためにまとまった時間をとるというのは難しい。仕事から帰ってもいろいろやることはあるし、そもそもが疲れている。休日にも用事はあるし、家族と過ごす時間も必要だ。だから生活の隙間の時間をちょっとずつ盗んで読書にあてることになる。贅沢は言えない。

 

代表的なスキマ読書は通勤の電車やバスでの読書だろう。

もっとも最近では本を読んでいる人は少なく、多くの人はスマホを見ている、嘆かわしい……といって「読書離れ」を嘆く人もいるが、それは人の勝手というもの。ちょっと前までは、スーツを着た若者が漫画を読んでいるのが「嘆かわしいもの」だった。年寄は嘆くのが趣味みたいなものだ。

ちなみに私は基本的に原チャリ移動なので、乗り物で読書というのはできない。

 

スキマ読書はコマ切れ読書でもある。 だから向いている本と不向きな本がある。

一話一篇が短いエッセイやコラム集は向いている。長篇小説は向いていない。しかし、向いていないというだけで不可能ではないし、慣れればそんなに苦痛ではない。

これに対して映画はどうか? 例えば2時間の映画を10分ずつコマ切れに見るということができるだろうか? いや、できないことはないだろうが、やる人はいないだろう。そんな馬鹿なことをするぐらいなら、なんとか2時間をつくる努力をするはずだ。

他の娯楽もそれなりにまとまった時間が必要なのではないかと思う。

 

そう考えると、意外に読書というのは時間がない人向きの趣味なのかもしれない。

 

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