何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

その文章には問題があります

 

高橋源一郎『「読む」って、どんなこと?』NHK出版、2020)を読む。

これはNHK出版の《学びのきほん》というシリーズの一冊で、100ページあまりの短い本だ。(帯には「2時間で読める!」と書いてある)

 

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その帯には、「作家40年、初の読書論!」とも書いてあり、まずこれにちょっと引っかかる。

私は、高橋さんの小説はあまり読んでいないが、エッセイや批評、文芸時評などは好きでよく読んできた。

とくに学生時代に読んだ初期のもの--エッセイなら『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』や『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』、文芸時評では『文学がこんなにわかっていいかしら』や『文学じゃないかもしれない症候群』などが好きで、こうした作品から本の読み方を習ってきたと思っている。

だから「初の読書論」と言われるとちょっと違和感を覚えてしまう。(まあ、そんなところにこだわらなくてもいいんだが)

 

この本で取り上げられている文章は、

 オノ・ヨーコ『グレープフルーツ・ジュース』

 鶴見俊輔『「もうろく帖」後篇』

 永沢光雄『AV女優』

 坂口安吾天皇陛下にささぐる言葉』

 武田泰淳『審判』

 藤井貞和「雪、nobody」

など、ちょっと変わったラインナップだ。いわゆる「読書論」を期待していた人は面食らうかもしれない。

しかし高橋さんの本を読み慣れている人は、高橋さんらしいな、と思うだろう。

 

これらの文章の共通点を(やや乱暴に)まとめると、「普通」からはみ出した文章ということになるかもしれない。

別の言い方をすると、いろいろな意味で問題がある文章だ。しかし高橋さんは、そういう問題がある文章こそ「いい文章」だという。

 

 たくさん問題を産み出せば産み出すほど、別のいいかたをするなら、問題山積みの文章こそ、「いい文章」だ、ということです。つまり、その文章は、問題山積みのために、それを読む読者をずっと考えつづけさせてくれることができるのです。

(中略)

 問題山積みの文章だけが、「危険! 近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを読む読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしは、そう考えています。(p.64-65)

 

そういう文章は、もちろん学校では教えてくれない。

 

 学校は、「社会」のことばを教える、いやもっと露骨にいうなら「植えつける」場所であり、その「社会」が、その裏にどんなことばを隠し持っているかを見つけることは、ひどく困難です。(p.102)

 

だから自分自身で探さなくてはならない。

 

私たちは、気がつけば、毎日同じような言葉の中で生きている。

「同じような」というのは、繰り返されるというだけではなく、「みんな」が「共有」できるような均質的な、という意味でもある。

同じような言葉の中で生きていると、物事を同じように考えるようになる。それは「みんな」の「社会」にとっては都合のいいことかもしれないが、「私」にとってはどうだろう。

本を読むというのは、誰かと言葉を「共有」することかもしれない。しかしその一方で、けっして「みんな」と「共有」できないなにかを探すことなのかもしれない。

ふとそんなことを思った。