何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

絵葉書を読む(その6) 晩春の別離

 

『絵葉書を読む』第6回。今回は……とにかく画像を見ていただきたい。

 

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見ての通り、絵の面にびっしりと文字が書き込まれている。この文字は表の通信欄から続いているのだが、いったい何が書かれているのか?

 

実はこれ、島崎藤村「晩春の別離」という詩を書き写したものなのだ。

「晩春の別離」は、詩集『夏草』(明治31年)に収められた百行を越す長篇の詩で、旅立つ友を送る心情をテーマにしている。

(ちなみにこの葉書、消印は読めないが、差出人の欄に「大正七年」とある)

差出人は、通信欄の冒頭にこんな一文を書いている。

 

故郷恋しきまま一句さし上げます。藤村詩集から晩春の別離。(私が読んで感極まりし文)

 

そして延々とこの詩を書き写しているのだ。

表の通信欄だけではもちろん足りず、裏の絵の下段の余白に続けて書き、それでも足りなくなって上段の絵の上にも書いている。

 

差出人は女性。宛名にも二人の女性の名前が並んでいる。

ここから先はあくまで想像だが、この文字の幼い感じといい、手紙の内容といい、差出人は女学生ではないかと思う。宛名人の二人も同じ年頃の友だちではないだろうか。

「故郷恋しき」とあるように、差出人はなんらかの理由(たぶん進学)で故郷を離れているのだろう。住所の最後に「松本先生方」とあるのは、女学校の先生の家に寄宿しているということなのかもしれない。

そして郷里の友だちに手紙を書いている。

 

彼女が机に向かい、詩集を横に見ながら、 その詩を小さな葉書に小さな字で一字一句書き写しているところを想像すると、なんだか息が詰まりそうな熱意を感じる。

自分が感動した詩を遠く離れた友だちにも教えたい。しかし今のように簡単にコピーしてシェアというわけにはいかない。本を送ることができないのであれば、こうして自分で書き写すしかない。

 

「晩春の別離」に描かれている友との別れを、自分の境遇に重ねているのだろうか。

 

  ああいつかまた相逢ふて

  もとの契りをあたためむ

 

少女らしい「感傷」と言ってしまえばそうなのかもしれない。

差出人が大人になってこの葉書を見せられたら、懐かしいと思う前に恥ずかしくなるかもしれない。

しかし彼女が少女として生きた時間が確かにあって、その時間の痕跡がこうして手紙という形で残されているのだ。