何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

大人になってできなくなったこと

 

大人になって虫に触れなくなった。

 

田舎生まれ、田舎育ちなので、子どもの頃は家の外で遊ぶことが多かった。

家庭用ゲーム機などもまだなかったので、友だちと野球(のマネごと)をしたり、鬼ごっこや隠れんぼをしたり、ちょっと遠くの雑貨屋で売っていた銀玉鉄砲(バネで小さなプラスチックの銀玉を撃ち出す、作りの雑なモデルガン)を買って銃撃戦をやったりしていた。

友だちの都合が悪くて一人で遊ぶこともあった。そういう時には虫や小魚などを採ったりした。なかなか牧歌的な少年時代だ。

 

たいていの虫には触ることができた。

もちろんゴキブリや毛虫などの害虫には触らなかったが、カブトムシやクワガタなどのスター昆虫(?)をはじめ、カナブンやカミキリムシなど、そこら辺にいる虫は普通に手で触っていた。甲虫だけでなくチョウやトンボ、セミなどもそうだ。

昆虫だけではない。小学校の帰り道、水を張った田んぼでカエルやタニシを採ったり、小川ではサワガニやザリガニ、素手で小魚を採ったりもした。梅雨どきにはカタツムリなど。

 

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大人になったいま、上に挙げた虫の類にはほとんど触れなくなった(と思う。あえて試してはいないが)

だからどうした? それがなんなんだ? と言われれば、別にたいしたことではない。

虫に触れなくても普通に生きていけるし、生活になんの支障もない。(田舎の場合はちょっと支障があるかもしれない)

しかし、そんなつまらないことでも、できなくなったこと、失った能力であることには違いない。

 

私たちは成長し、大人になるにつれていろいろなことができるようになっていく。そして多くのことを学び、得るようになる。

しかしその一方で、できなくなったこと、失ったものもあるだろう。

それは得たものに比べると、取るに足りないどうでもいいことかもしれない。秤にかければ、圧倒的に得たものの方が大きく重いような気がする。

だがそれは、失ったものを過小評価しているのかもしれない。それは自分で思っているよりも大きく大事なものなのかもしれない。

もしかしたら、得たものばかりに目がいって、何かを失ってしまったことにさえ気付いていないのかもしれない。

 

望むと望まざるとにかかわらず、私たちは世の中で生きていくために成長しなければならない。

だがときどきは、成長する過程でできなくなったことや失ったもののことを考えてみたほうがいい。(そればかり考えるのは良くないが) 

それと同時に、成長してできるようになったこと、得たものが、自分の幸せに本当に必要なものなのかどうかも。

  

今週のお題「〇〇の成長」