何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

鯉のぼり

 

5月の初め頃、地元の田舎道を原付で走っていると、道沿いに大きな鯉のぼりを揚げている家があった。型通りに4匹の立派な鯉のぼりだったが、残念ながらその日はまったく風がなく、空を泳ぐというよりは力無く吊られているといった感じだった。

この辺りの田舎でも大きな鯉のぼりを揚げる家は減ってきているように思う。それは旧い慣習が失われつつあるということなのか、それとも単に子どもが減っているということなのか、まあたぶんその両方なのだろう。

その立派な鯉のぼりを見て、私はそこの家の男の子が「祝福されてるなあ」と思うと同時に「期待されてるなあ」とも思った。その鯉のぼりの大きさが、子どもへの期待の大きさそのもののように思えたのだ。それはただ健やかに成長してほしいというだけのものではなく「男子」としての期待である。

 

 

私が生まれた時も立派な鯉のぼりを揚げてもらった、らしい。

私自身は覚えていなくて、後年家族に聞いた話である。鯉のぼり自体も親戚に譲ったとかで残っていなかった。

私は期待された子どもだった。

私には歳の離れた姉が二人いて、私は末っ子の長男として生まれた。田舎の農家の長男、つまりは待望の「跡取り」である。

「あんたを妊娠した時、周りはどうせまた女だろうからやめておけと言って反対したのを、わたしが押し切って産んだのよ」と、母はときどき誇らしげに(多少恩着せがましく)私に言った。現在ならいろいろ問題がある発言だが、半世紀前の田舎の話だ。私の家は由緒ある旧家でも名家でも豪農でもなかったが、母は《家》へのこだわりが強かった。

 

「跡取り」の使命は《家》を継ぐことである。

それは具体的には自分たちの《血》と《名》を(できれば多少《富》を上乗せして)次の世代に繋ぐことである。そう期待されている。

子どもの頃の私は殊勝にもその期待に応えるつもりでいた。大人になったら「跡取り」としての責務を果たさなくてはならないのだと、子どもながらにぼんやりとそう思っていた、ような気がする。

 

で、実際にこうして大人になってしまったわけだが、私はその使命だか責務だかを果たすことができずにいる。いや、もう「できなかった」と過去形にしてもいいだろう。いままで繋がれてきた《血》と《名》は私の代で終わる。

そのことを親や先祖に対して申し訳ないと思う気持ちは私にもある。いまどきそんな時代錯誤な、と思うかもしれないが、私もまた旧い人間なのだ。

しかしその一方で、開き直っているところもある。「まあ、曲がりなりにも50年生きたんだ。生き物としてはそれだけでも立派なものだ」と。

すみませんね、ご先祖様。ご期待に添えなくて。でも、こうなってしまったものは仕方がないでしょう?

 

他人の家の鯉のぼりを見てそんなことを思った。

 

今週のお題「おとなになったら」