前回読んだ勢古浩爾『ただ生きる』という本の中で、鴨長明の『方丈記』について触れているところがあった。(正確には玄侑宗久『無常という力ーー「方丈記」に学ぶ心の在り方』という本についてだが)
それでなんとなく『方丈記』を読んでみたくなった。
『方丈記』は文庫でも何種類か出ているが、今回選んだのは蜂飼耳の現代語訳による光文社古典新訳文庫(2018)である。自慢じゃないが、現代語訳がないと読めない。
『方丈記』といえば、冒頭の文章と、都を襲った数々の災害(火事、竜巻、飢饉、地震)の記録の部分が有名で、確か高校の授業でもその辺りを読んだ(読まされた)記憶がある。
しかしそれは『方丈記』の前半だけで、後半では都を離れた長明の隠遁生活について語られている。私はこの後半の方がおもしろかった。
50歳で出家した鴨長明は、最終的に都から離れた日野(現在の京都市伏見区内)の山中に小さな庵を構える。1丈は約3mだから、「方丈」という言葉通りなら3m×3mの一間の建物である。
その庵の中にあるのは(最低限の日用品の他には)壁に掛ける阿弥陀と普賢菩薩の絵像、趣味の琵琶と琴、それから書物が少し。それだけである。いたって簡素な生活だ。いまの言葉なら「究極のミニマリスト」と言えるかもしれない。
しかも建物自体も組立式で、簡単に解体することができ、その気になれば荷車に乗せて家ごと引っ越しすることができるという。物質的にも精神的にも身軽なのである。
一人暮らしだから生活も自由だ。
もちろん出家の身であるから仏道修行はするけれど、気が乗らない時はお経も唱えない。
もし、念仏をするのが面倒になり、読経に気持ちが向かないときは、思いのままに休み、なまける。それを禁じる人もいないし、誰かに対して恥ずかしいと思うこともない。(p.39-40)
なんとも正直な人だ。そこは嘘でも「毎日修行に励んでます」ぐらい言っとけばいいのに。
そして和歌を詠んだり、興が乗れば楽器を弾いたり歌ったりする。
琵琶をうまく弾けはしないけれど、だれかに聞かせて喜んでもらおうというのではない。一人で弾き、一人で歌い、自分の気持ちを豊かにしようというだけのことだ。(p.40)
ときには10歳ぐらいの里の子どもと山を散策したり、たまに一人で遠出して昔の歌人の墓にお参りしたり。悠々自適である。
こうしてみると、もう完全に俗世間とは縁が切れて、悟り澄ましたような境地にあるように見えるが、必ずしもそうではない。
世界というものは、心の持ち方一つで変わる。(中略)いま、私は寂しい住まい、この一間だけの庵にいるけれど、自分ではここを気に入っている。都に出かけることがあって、そんなときは自分が落ちぶれたと恥じるとはいえ、帰宅し、ほっとして落ち着くと、他人が俗塵の中を走り回っていることが気の毒になる。(p.48)
都に行って立派な服を着た人や豪華な屋敷に住んでいる人を見たりすると、長明でも「落ちぶれたと恥じる」ことがあるという。心がざわついて穏やかではいられなくなるのである。
しかし自分の狭くて簡素な家に帰ってくると心が落ち着いて、他人と自分を比べて見栄を張る必要もなく、劣等感からも解放される。
長明にとってその方丈の庵は、自分に最も正直でいられる場所なのかもしれない。
なんだかちょっと羨ましい。私もそういうシンプルな隠遁生活に憧れる。
私も早く退職という名の「出家」がしたい。