何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

ただ生きる

 

先日大型書店をうろうろしている時に、こんな本を見つけた。

勢古浩爾『ただ生きる』(夕日書房、2022)

 

 

著者の名前は知っていたが読んだことはなく、夕日書房という出版社も初めて聞く名前だったけれど、タイトルに惹かれて読んでみた。(ちなみに夕日書房は2020年に設立された出版社)

 

「ただ生きる」とはどういう生き方か? はっきり定義されているわけではない。

例えば「夢」や「目的」を持って、それに向かって生きている人がいる。それはそれでいい。けっこうなことだ。

しかし特別な「夢」や「目的」がなかったとしても、あるいは、その「夢」や「目的」に挫折してしまったとしても、劣等感を感じる必要はない。それならそれでもいい、ただ生きればいいのである。

 ほんのちょっとの意思と、ほんのちょっとの生きがい(愉しさ)がある。目的も夢もなくても、「生きる」を主題とした「ただ生きる」で生きられればいいのに、と思う。(p.33)

世の中はなにかというと「夢」や、生きる「目的」や「意味」を持たせたがるけれど、そんなものはあればあったでいいし、なければなくてもいい。

何かのために生きるのではなく、生きることそれ自体がテーマであるような生き方。それでもいいのである。

ただ一つ心得ておきたいのは、余計なことはしないということだ。

 ただし、できるだけ余計なことは考えない。余計なことをしない。余計なことは欲しない。

 そして、なにが余計かは自分の判断である。(p.42)

「ただ生きる」に似た言葉を探せば、「シンプルに生きる」とか「淡々と生きる」あるいは「無心に生きる」といった感じになるだろうか。

 

なんだか抽象的な話になってしまったが、本書の内容はもっとずっと具体的でおもしろい。

著者はいろいろな人(実在の人物も、フィクションの登場人物も)の生き方や言葉を紹介しながら、「こういう生き方も『ただ生きる』である」と言う。

私が特に印象深かったのは、比叡山で「十二年籠山行」という行を修めた宮本祖豊師のこんな言葉である。

「人は遠くを見すぎるし、考えすぎる。わたしは今日一日だけ生きよう」(p.177) 

 

私たちの人生というのは、たいてい平凡な日々の繰り返しである。それが耐えられないと思うこともある。私も若い時はそうだった。

しかしその平凡な日々の繰り返しを受け入れ、肯定できた時、日常の豊かさに気づくことができる。

 ドラマがある人生を送る人はたしかにいるが、それだけがドラマではない。日常のなかにもドラマはある。わたしたちが見ようとしていないだけだ。あるいは、見る目がないだけのことである。(p.67-68)

 日常が退屈というのはウソである。世間がそう思い込んでいるだけだ。むしろ日常のなかに修羅を見ないやつ、日常のなかに幸せを見ることができない人間はだめである。(p.40)

「ただ生きる」とは、惰性でなんとなく日常を生きることではなく、積極的な意思を持って日常に埋没することと言えるのかもしれない。

 

うーん、あんまり上手く伝わってない気がするなあ。

興味がある人は、実際に本書を読んでみてください。(投げた!)

 

勢古さんの文章を読んでいると、なんとなく「頑固オヤジ」という言葉が頭に浮かんできた。

ここで言う「頑固オヤジ」とは、意固地で偏屈なオヤジのことではなく、一本《筋》が通ったオヤジのことである。

昔はそういう「頑固オヤジ」っぽい文章を書く人がもっといたような気がするが、最近はどうだろう?