何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

にもかかわらず

 

この3、4日、ちょっと体調が悪かった。

なんとなく熱っぽく、霞がかかったように頭がボーッとする。かろうじて仕事はこなしたものの、家にいる時はたいてい横になっていた。

今朝目が覚めると、まだ本調子とはいえないが、だいぶ頭がスッキリしている。ようやく読み書きする意欲が湧いてくる。私はどうも軟弱で、ちょっと体調が悪いと簡単に気力が萎えてしまう。(本当はデリケートだと言いたいのだが、さすがにそれは厚かましいような気がする)

 

さて、なにを読もうかなと積ん読の山を物色し、手に取ったのがこちら。

エーリヒ・ケストナー『人生処方詩集』(小松太郎訳、岩波文庫、2014  //  原書  1936)

病みあがりかけ(?)には良さそうなタイトルだ。

 

f:id:paperwalker:20190907022413j:plain


 これは過去に刊行された4冊の詩集からケストナー自身が選んだ自選詩集で、 スイスで刊行された。実はケストナーの詩集はナチス政権下で「焚書」になって、以後ドイツ国内では出版されなかったのだが(児童文学はOK)、国外での出版は容認されたらしい。

ケストナーはこの本の「序文」で、これは人間の内面生活の「治療に役だつような一つの案内書」であると言っている。

   さびしさとか、失望とか、そういう心のなやみをやわらげるには、ほかの薬剤が必要である。そのうちの二、三をあげるなら、ユーモア、憤怒、無関心、皮肉、瞑想、それから誇張だ。これらは解熱剤である。それにしても、どの医者がそれを処方してくれるのだろう。どの薬剤師がそれを瓶に入れてくれるか。(p.12)

 

パラパラとページをめくっていると「略歴」という詩が目にとまる。 

 

      この世に生まれない者は   あまり損をしなかった

      彼は   宇宙の中で   樹の上にこしかけ   わらっている

      ぼくは   そのころ   子供として生まれた

      生まれるつもりもなしに

 

それから学校に入ると

 

      ぼくは   折紙つきの模範少年だった

      どうしてそんなことになったのか   今でも   まだ   残念だ

 

ああ、わかるよ、それ。私も中学生の頃は気持ち悪いぐらいの優等生だったから。

やがて大きな戦争が始まる。

 

      ぼくは   生きつづけた   どうしてと問わないでほしい

 

 そうして彼は生きのびて、40歳になった。詩は次のように結ばれている。

 

      ぼくも   自分のリュックは   自分で背負わねばならぬ

      リュックは大きくなる   背幅はひろがらぬ

      つづめて言えば   だいたいこういえる

      ぼくはこの世に生まれた   にもかかわらず生きつづけていると

 

にもかかわらず……。逆接だ。常識的にいえばここは順接(だから、それで)で繋ぐところ。それをあえて「にもかかわらず」とは、まるで生まれてきたことが何かの間違いだったみたいだ。

ここは最初の「生まれるつもりもなしに」から繋がっている。

 

私たちはみんな「生まれるつもりもなしに」この世界に生まれてきた。自分の意思で生まれてきた人間はいない。気がついた時にはもう生きていたのである。言ってみれば、生きるということは誰にとっても〈事後承諾〉にほかならない。

しかし、とりあえず一人前に物事が判断できるようになった時、私はそれを認めない、承諾しない、と言って生きることをやめることは(基本的に)できない。

生まれたくて生まれたわけではない。にもかかわらず、生きつづけなければならない。

どうして?

 

      どうしてと問わないでほしい