何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

ピンクのヒヨコ

 

前回の記事で「自分はまだまだひよっ子だ」みたいなことを書いたのだが、その時ふと、ヒヨコのことを思い出した。

普通の黄色いやつではない。ピンクのヒヨコのことだ。

 

あれは祖父がまだ元気な頃だから、私が5、6歳ぐらいのことだったか。祖父が私を隣の市にある神社の縁日に連れて行ってくれたのだ。祖父と外出することなどめったになかったので、私はとてもテンションが上がっていたはずだ。

祖父は厳しい人だったけれど、私にはけっこう甘いところがあったので、たぶんいろんなものを買ってもらったと思う。さすがに大昔のことなので具体的なことは忘れてしまったが、一つだけはっきり覚えているものがある。それがピンクのヒヨコ、つまりカラーヒヨコだ。

 

今はさすがにないと思うが、私が子どもの頃には、お祭りや花火大会などの出店でカラーヒヨコというものを売っていた。

それは蛍光色のピンクや緑やオレンジなどの色をしたヒヨコで、一応説明しておくと、普通のヒヨコに染料やスプレーなどで着色した「商品」だ。

ヒヨコは生まれて間もなく雄と雌に選別される。雌のヒヨコは採卵用に育てられるが、雄は食肉としてもブロイラーに劣る(採算が合わない)ため、雌との交配用を除いてほとんどが殺処分される。その中で一部の雄は愛玩用として売られるのだが、ただ普通に売ってもたいして売れるものではない。そこで考えられたのが着色したカラーヒヨコというわけだ。(なんだか書いてるうちに気が重くなってきた。傲慢すぎるだろ、人間……)

そんな人間のエゴを体現したようなカラーヒヨコだが、子どもにそんなことが考えられるわけもなく、珍しさに惹かれて買ってしまうのだ。まあ、文字通り「子どもだまし」といっていい。私も素直にだまされて、ピンクと緑の二羽のヒヨコを買ってもらった。

 

家に連れて帰った二羽のヒヨコは、祖父が木材と金網で作ってくれた囲いの中に入れられて順調に育っていった。

実はカラーヒヨコは、染料の影響や、劣悪な環境で飼育されていたため、大人になる前に死んでしまうものも少なくないらしい。そういう意味では、私は運が良かったのかもしれない。

ところが、二羽のヒヨコは成長するにつれてだんだんと変化していく。鮮やかな蛍光色だった羽が次第に薄汚く色褪せていき、抜け落ちて、灰色がかった白い羽が見えてくる。日に日にその白い部分が広がっていき、最終的に、どこにでもいる普通のニワトリになってしまったのだ。

途中からその変化に気づき、とまどっていた私は、その結果にがっかりした。(もっとも、そのままピンクのニワトリになっていたら、それはそれで気持ち悪いのだが)

しかも周りの大人たちは、それを不思議ともなんとも思っていないようだった。私だけがそうなることを知らなかったのだ。なんだか裏切られたような気がした。

 

それからしばらくたったある日、私が学校から帰ってみると、 二羽のニワトリはいなくなっていた。

彼らは「煮物」になってその晩の食卓に上った。

私はショックのあまり泣きじゃくり、祖父に抗議した。

このニワトリは雄だから卵を産まないし、このままただ老いて死ぬだけだから、だったら食べてやった方がいい、というのが祖父の考え方だったと思う。

しかし私にとってそのニワトリはペットだったのだ。そしてそれ以上に、私のものが、私のいない間に、私になんの断りもなく処分されたことがショックだった。

今だったら、それもできるだけ私を傷つけないようにという祖父の配慮だったのかもしれないと思うが、その時はただただ悲しくて、そして口惜しかった。

私は食卓に着いたまま泣き続けた。しかしやがて泣き疲れ、泣き止んだ。

目の前にはまだ煮物が残されている。激しく泣いたので、腹が減っていた。

私はその肉をつまみ、口に入れた。おいしかった。また一つ口にした。そしてまた一つ。

悲しかった。でも、おいしかった。

私は人間の複雑さを少しだけ学んだ。

 

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