何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

姉と弟

 

私には歳の離れた姉が2人いる。

 

2人とも地元の高校を卒業して就職した。

一番上の姉はどう思っていたのか分からないが、二番目の姉は大学に進学したいと思っていた。しかし家の事情でそれは叶わなかった。家の事情というのは、つまり私のことだ。

私は3人姉弟の末っ子の長男で、家の「跡取り」だった。その頃はまだ小学生だったが、「跡取り」として大学まで行くのは既定路線だった。

家は残念ながら裕福とは言えなかった。この先私の学費はかさむ一方だ。姉を大学にやる余裕はなかった。

それと同時に、女が大学に行ってどうする? という風潮もまだあったと思う。40年近く前の、田舎のことだ。(ついでに言えば、70年代にはまだ都市部と田舎の文化的差異〔あえて格差とは言わないが〕は大きかった。それが80年代に入って、良くも悪くも均質化していったのではないかと思う)

姉は向学心の強い人だったので、相当悔しかったと思う。ときどき冗談らしく「私はあんたの犠牲になった」と言っていた。言われた私は心外だったが、今にして思えば、あれは誇張でもなく、冗談でもなかったのだろう。

そうやって甘やかされて育ち、大学に行かせてもらった私は、結局残念な大人になってしまったが……それはまた別の話。

 

こんなことを思い出したのは、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳、筑摩書房、2018 // 原書 2016)を読んだからだ。

 

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キム・ジヨンにも上に姉が一人、下に5歳離れた弟が一人いる。私の家と同じ家族構成だ。

ここでもその弟(名前は記されていない)は男、しかも長男ということで優遇されている。

 

弟と弟のものは重要で、あだやおろそかにしてはならないのであり、よほどの人でない限り触っちゃいけないのだが、キム・ジヨン氏は「よほどの人」には及ばないということらしい。姉も同じことを感じていたのだろう。(p.20)

 

こういう感じも当時の私の家によく似ている。(キム・ジヨンは大学に行けたけれど)

 

この小説はキム・ジヨンの半生を語りつつ、韓国社会において女性であるために受ける抑圧や差別をあますところなく描いている。そういう意味では、文学というより「告発の書」に近いのかもしれない。(昔のプロレタリア文学のように)

私も男性読者として、反省したり、理解を示したり、何かもっともらしいことを言わなければならないような気もするのだが、それは他の人に任せよう。

私はどうにもキム・ジヨンの弟のことが気にかかる。

「弟? 弟なんて関係ないじゃん! もっとジヨンの、女性のことを考えてよ!」という声が聞こえてきそうで、それは私もよく分かっているのだが、気になるものは仕方がない。

 

弟はキム・ジヨンの5歳下だから、実在していれば今年(2019年) で32歳になる。

物語の後半に一度だけ大学の「勉強が長引いている」(p.143)という情報が記されるが、それ以外は何も語られていない。

大学を出て、軍隊(徴兵)に行ったとすると、今は社会人5、6年目といったところか。彼はちゃんと就職できただろうか? 結婚はどうだろう?

最近の韓国社会のニュース、とりわけ経済の暗い話題を耳にするにつけ、彼の生活が心配になる。男性にとっても決して生きやすい社会ではなさそうだ。(女性はそれ以上に苦しいのだろうけど)

名もない弟よ、どうかがんばって生き抜いてほしい。

残念な大人にならないように。