何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

法事のこと

 

先日、父の三回忌を行った。

本来であれば、近い親戚に集まってもらって、お寺でお経をあげてもらった後に簡単な食事会をしたりするのだが、いまはコロナのことがあるので集まることはせず、私と姉たちだけでお寺に行った。

読経してくれたのは若いお坊さん(住職の息子)だった。(後ろから見ている限り)彼はマスクをしたままお経を読んでいるようだった。まさか仏様には感染しないだろうに、と思うとちょっとおかしかった。

そのあと少し住職の奥さんと世間話をしたのだが、コロナの影響でお寺の方も予定していた行事のやり方を変えたりと、いろいろ大変そうだった。

日常生活だけではなく、当然「冠婚葬祭」のやり方も変わらざるを得ない。

しかし、こう言っては不謹慎かもしれないが、もともと人付き合いが苦手で出不精な私のような人間にとっては、形骸化した慣習が見直されて、そういう意味では少し生きやすい世の中になるかもしれないと思ったりもする。

 

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話は変わって、昨年の一周忌のこと。

このときはまだコロナの影響もなく、親戚が10人余りお寺に集まったのだが、突然住職の奥さんから「今日の法要は○○家と一緒になります」と言われた。

なんでも急な葬式が入って(葬式はいつも急なものと決まっているが)、午後に予定していた○○家の法事ができないため、それを午前に繰り上げてうちと一緒に済ませようということらしい。当然うちと○○家は何の関係もない。

私たちは少なからず不満だった。縁もゆかりもない他家と合同で法事をするなど聞いたこともない。なんだかありがたみも半減するような気がする。

しかし私たちに拒否権はなく、「また日を改めて」というわけにもいかず、しかたなく承知した。

 

本堂では私たちが左側に、○○家の人たちが右側に座った。お互いに挨拶もしなかった。

いまから思えば(社会人として)挨拶ぐらいしておくべきだったが、そのときはそういう感じではなかったのだ。たぶん向こうも困惑していたのではないかと思う。

しばらくすると住職が入ってきてこう言った。

「本日は●●(うちの父親の名前と法名)の一周忌、ならびに○○の百回忌を執り行わさせていただきます」

……え⁉︎  いま「百回忌」って言わなかった? 

聞き間違いかと思ったが、そうではないらしい。ちらっとお隣さんの様子を窺うと、みんな神妙な顔をしている。

 

読経の間もずっと百回忌のことが気になっていた。

百回忌ということは、本人はもちろん100年前に亡くなったということだ。今日来ている人たちは、当然誰も直接会ったことがないはずである。そういう先祖のために集まって法事をしている。

普通に考えれば、先祖に対する感謝と敬意を忘れない立派な行いなのだろう。

しかし私は「なんだかシュールだなあ」と思った。

 

いったい、人間は死ぬにあたって、いつまでも他人に自分のことを覚えていてもらいたいと願うものなのだろうか?

私にはよくわからない。自分が死に臨んだときにどう思うだろう。

もっとも私の場合、子どももいないし、人付き合いもほとんどないので、そう願ったとしてもすぐに忘れられてしまうのだろう。

いや、死を待つまでもないかもしれない。こうして生きている今でさえ、他人の記憶の中から私の存在が消えていっているような気がする。

忘れられることは寂しいような気もするが、一方で、それならそれでかまわないような気もする。