何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

18歳までは雨の日が好きだった

 

今週のお題「雨の日の楽しみ方」

 

小学生の頃の私はまるまると太っていた。

ちょっと体を動かしただけで息を切らし、大汗をかいた。そんな子どもが最も苦手にしていたもの、いや、ほとんど憎んでいたといってもいいものが「体育」の授業だ。

 

サッカーやソフトボールなどの球技はまだいい。苦手なことにかわりはないが、それでも多少は楽しい気持ちになれる。しかし、水泳とかマラソンとか、要するに純粋に体を動かすだけのものは苦痛でしかなかった。

とりわけ私が最も憎み、かつ恐れていたのが鉄棒だった。

逆上りもダメだし、前回りもダメだ。がんばって前回りをしても、体を元の位置に戻すことができず、足を投げ出すような格好で着地してしまう。一度途中で手を滑らせて、顔から地面に落ちたこともある。低い鉄棒だったので、ちょっと擦りむいたぐらいで済んだけれど、それからはいっそう鉄棒が怖くなった。

鉄棒の前に立つと途方にくれた。他の子たちの視線を感じると惨めになり、いたたまれなくなった。

体育の授業がある日は学校に行くこと自体憂鬱で、ときどき仮病を使って休んだりもした。

 

そんな私を救ってくれるのが雨だった。私は雨の日が好きだった。

雨の日は当然外での授業はなくなって(水泳はやることもあったが)、体育館を使うことになるのだが、そういう時はドッヂボールなどのちょっと軽めの内容になる。何かの理由で体育館が使えない時には、教室で保健の授業になったり、まったく関係のない自習になったりした。体育が得意な子はつまらなそうな顔をしていたが、私は上機嫌だった。

しかし、何事もうまいことばかりではない。

雨の日の体育館での授業にも天敵といえるものがあった。

跳び箱とマット運動だ。

くどくどと描写するまでもなく、とにかく私は無様だった。

いったい、箱をピョンピョン跳んだり、マットの上をゴロゴロと転がったり、鉄の棒をグルグルと回ったりすることになんの意味があるのか? 大人になった時に、これがいったいなんの役に立つというのか?

私は心の中で激しく毒づいた。(基礎体力を養う意味があるのだが)

 

この状況は、もちろん小学生の時だけでなく、中学、高校と変わらなかった。だから大学に入って体育の授業がなくなった時は心底嬉しかったし、ほっとした。

そして体育の授業から解放されたとたんに雨の日が嫌いになった。

現金なものだ。

 

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