何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

トカトントン

 

ブログを一年も続けていると「そういえば最近、あのブログの新着記事を見ないな……」ということがしばしばある。

見に行ってみると、だいぶ前に更新が途絶えている。

「やめちゃったのかな」と思うと、ちょっと寂しくなる。好きだったブログはもちろんだが、それほど読んだことのないブログでもやっぱり寂しいと感じる。入ったことのない店でも、シャッターの上の「閉店」の貼り紙はどこかもの悲しい。

ブログをやめる理由はもちろん人それぞだと思うけれど、止まったブログを見ると、

「ああ、この人にも『トカトントンが聞こえたのかもしれないなあ……」

と思ってしまう。

 

トカトントン太宰治の短編小説。

敗戦の日、いわゆる〈玉音放送〉を聞いた主人公は死ぬべきだ、「死ぬのが本当だ」と思い詰める。しかし--

 

 ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。

 

トカトントン」という音を聞いたとき、死のうと思い詰めていた悲壮な気持ちがなぜか嘘のようにきれいさっぱりなくなってしまい、主人公は故郷に帰っていく。

 

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ところが「トカトントン」はその後の生活の中でもたびたび聞こえてくる。

たとえば主人公が書いていた小説があと少しで完成という時に「トカトントン」が聞こえる。すると、それまで熱心に書いていた小説が急にどうでもよくなってしまい、原稿を破って捨てるほどの関心もなくなり、文学への興味もなくしてしまう。

また、朝から晩まで仕事に励み、ヘトヘトになりながらもそこに生き甲斐を感じ始めた時に「トカトントン」が聞えてしまい、そんなことに一所懸命になっているのが馬鹿馬鹿しくなる。

一事が万事この調子で、女性、政治、スポーツなど、何かに情熱や好奇心を向けると、そのたびに「トカトントン」が聞えてきてどうでもよくなってしまう。

人間からあらゆる情熱を奪ってしまう音。そのちょっと間の抜けた響きとはうらはらに、実に恐ろしい音なのだ。

もちろん人間は情熱や好奇心なんかなくったって生きていける。生きてはいけるけど……。

 

私はいまこうやってブログを書いているけれど、いつの日か私にも「トカトントン」が聞えてくるかもしれない。

ある日、ブログの編集画面を開いて「さて、今日は何を書こうか」と考えていると、どこからともなく「トカトントン」という音がが聞えてくる。

私はフリーズする。しばらく真っ白な画面と点滅するカーソルを見つめている。

「えっと……なんだろう……なんで俺はこんなことに時間を使ってるんだろう。なんだってこんなことに一所懸命になってたんだろう……」

そして画面を閉じて、それっきり。もうなんの興味も持てなくなる。

過去記事にも関心がなくなったので、消去もせずに放置。田舎の空き家のように、主人がいなくなったブログがポツンと残される……。

 

いつか私にもそんな日が来るかもしれないなあ。来るんだろうなあ。

できればもう少し先のことであってほしいけど。