何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

さよなら、孔雀

 

仕事から帰ってネットを見たら、いきなり『孔雀王』の荻野真さんの訃報にぶつかった。

 

www.oricon.co.jp

 

孔雀王』は、裏高野の「退魔師」孔雀が、密教で得た力を使って妖魔を倒し、仲間と共に世界を救う物語だ。(大雑把!)

ヤングジャンプ』に連載されていた。

 

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私が初めて『ヤングジャンプ』を読んだのは、大学に入学する前後のことだったと思う。まさか、大学入学→大人になる→青年誌と考えたわけではないと思うが(そこまで単純ではない、たぶん)とにかくその頃だ。

その時『孔雀王』は、裏高野で孔雀と鳳凰が対決しているあたりだったと思う。

ずいぶんグロくてエロい漫画だな、と思ったけれど、私はその壮大な物語に魅了された。神話、宗教、民俗学といった諸学の知識を駆使して超常の戦いを描くその漫画は、まだ学問のなんたるかも知らない若僧にはとても魅力的だった。そして簡単に影響された。

クラスのコンパのときだったか、若僧は調子に乗って、つい、仏教に興味がある、などと口走ってしまい、近くにいた先生に何か質問されたのだが、「いえ、その、漫画で読んで……」と答えてすごく顰蹙を買った。まあ、今となってはいい思い出……でもないか。やっぱり恥ずかしい。

とにかくコミックスの既刊を買い揃え、連載を楽しみに読んでいた。

物語が完結しても何度も読み返した。

 

それから数年して、続篇の『孔雀王  退魔聖伝』が始まった。

前作からかなり時間が経っていた(その間別の作品を連載していた)ので、絵がずいぶん変わってしまってとまどったが、それでもやはりおもしろかった。

ところが、日本神話に関わるあたりからどうも雲行きが怪しくなる。

読んでいるこちらにも、作者の苦心というか、描きにくさが伝わってくるようだった。日本神話自体が複雑なせいなのか、それとも何か別の理由なのか、とにかく描きにくそうだった。

結局『退魔聖伝』は中途半端なところで終わってしまう。

 

さらに時間が経って、続篇の『孔雀王  曲神(まがりがみ)紀』が始まった。

今度は最初から日本神話をテーマにしていた。しかし、やはりどこか描きにくいというか、難航しているような感じがした。

今度は一応完結はしたものの、どこか不完全燃焼のような印象を受けた。

 

今連載されている『孔雀王ライジング』や『孔雀王  戦国転生』には、もう昔ほどの熱意は持てなくなっている。(読んでるけど)

 

そこに今回の訃報だ。

驚きのあまり、その勢いでこのとりとめのない記事を書いた。

結局一番よく覚えていたのは、一番古い最初の『孔雀王』だった。けっこう細かいことまで思い出した。

ついでに、それを読んでいた頃のことも少し思い出してしまった。

あの、時間と自分自身を持て余していた日々を。

 

最後になりましたが、心からご冥福をお祈り申し上げます。

合掌。

 

 

本の街

 

 先日、ネット書店をうろうろしていたらこんな本を見つけた。

アレックス•ジョンソン『世界のかわいい本の街』(井上舞訳、エクスナレッジ、2018)

 

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「かわいい」というのは違うと思うが(なぜこの言葉を選択したのか、理解に苦しむ)素敵な本だと思う。

始まりの地とも言うべきイギリスのヘイ・オン・ワイはもちろん、ノルウェーフィヨルドの側にある小さな村や、韓国の非武装地帯の近くにある書店と出版社の街など、世界各地にある「本の街」を豊富な写真とともに(というか、写真がメインで)紹介している。

 

「紙の本」の未来を守り、電子書籍の襲来に立ち向かい、にぎわいをなくしたコミュニティに新たな光をもたらそうと、世界各地の村や街に、志を同じくする書店主、出版社、建築家たちなどが集まっています。(p.7)

 

ここに紹介された街の多くは「国際本の街協会」(the International Organization of Book Touns , IOBT)という組織に加盟していて、持ち回りで国際的なブックフェスティバルも開催している。

同じように本を中心にした街づくりでも、その環境によって個性が生まれバラエティに富んでいる。パラパラ眺めているだけでも楽しい本だ。

 

しかし、読み進めていくうちに、いろいろな疑問が頭に浮かんでくる。

本の街といっても定義は曖昧で、その取り組み方にも違いがある。

比較的大きな街に数軒の書店や古書店があるようなところもあれば、人口数百人ほどの小さな村のいたるところに本を置いているようなところもある。

ただ共通しているのは、どの土地も過去の主要産業が衰退して寂れていく一方だったということだ。

つまりこの「本の街」という企画には、多かれ少なかれ「町おこし」「村おこし」の意味がある。そういう視点で見た場合、この本による「町おこし」は本当に有効なのだろうか。

たしかにヘイ・オン・ワイは成功し、それがモデルケースになっているわけだが、むしろ成功する方が例外なのではないか。

日本でも年に1、2回ブックフェスティバルのようなイベントを開催するところはある。また、本が中心ではなくても、市や街の催事の一環として「一箱古本市」を行うところも増えているらしい。そういうのはいい。

しかし「本の街」として本を中心に据えてアピールし、恒常的に人を呼び込もうというのは、ちょっと無理があるんじゃないかな、と思ってしまう。

 

なんだか夢のない話になってしまった。

しかし、そこが「街」である以上住人の生活があるわけだし、生活は夢ではない。

そう思ってまたこの本を眺めてみると、そこにあるいくつもの「本の街」が、夢と現実の間に生まれた美しい幻のように思えてしまう。

 

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ウィグタウン(スコットランド)にある書店「バイアー・ブックス」(p.156 より引用)

 

 

 

春の仕事

 

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」

 

この10連休は、半分は仕事で、休日も飛び石的だったので、特に何もしていない。

いや、仮に10日フルに休めたとしても、たぶん何もしなかっただろう。

最近では特別なことをするとすぐに疲れてしまう。だからもう「普通」でいい。本を読んだり、こうやってブログを書いたり、昼寝をしたり。

 

やったことで少しだけ普段と違うことといえば、裏の竹藪でタケノコを掘ったぐらいか。

 

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「なんだ、春らしい、楽しそうなこともしてるじゃないか」と思われるかもしれないが、そうではない。これはやっとかないとえらい事になるのだ。

 

竹の成長は異様に早く、また力強い。タケノコをそのままにしておくとあっという間に立派な竹になってしまう。放っておくと竹が超密生してしまうのだ。

竹藪には竹が何本も生えているように見えるが、実はあれは地下で繋がっている。しかもその地下茎はどんどん伸びる。ウチは家屋と竹藪が離れているからいいが、なかにはいつの間にか地下茎が家の床下まで伸びてきて、そこからタケノコが成長して床を突き破ったという例もあるらしい。

下手をすれば、『ナウシカ』の腐海みたいにどんどん広がっていきかねない。

そこでタケノコのうちに適当に間引いておかなければならないのだ。(去年はサボってしまったのでえらい事になっている)

 

そういうわけで、めんどくさいけれど重い腰を上げた。

竹藪に入ってみると、数日前に下見をした時よりも数が増えている。そういえば一昨日雨が降ったんだった。さすがは「雨後のタケノコ」などと妙なところに感心する。

何本かタケノコを掘った。掘ったというか、私の場合、数十㎝ぐらいのタケノコなら蹴り倒す。(イメージ的にはこんな感じ)

 

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やはりもう少し早くやるべきだった。けっこう成長しているものが多い。

掘ったものはその場に放置してほとんど捨ててしまうけれど、ちょっとだけ食べたりもする。

 

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これはタケノコとこんにゃくと鶏肉の煮もの。煮ものは一度作ると3、4日は続けて食べる。見栄えはしないが味はそこそこ。

先端の柔らかい部分は、みじん切りにしてタケノコ御飯にしようと思う。薄くスライスしてみそ汁の具にするのもいいか。

 

それにしてもこのブログ、どんどん節操がなくなっていくな……。

 

 

料理は「女子力」ではなく、「人間力」です

 

20代の頃はかなり太っていて、不健康が服着て歩いているようなものだった。

30代の頃に、ちょとした思いつきでダイエットしてみたら、これが本当に痩せてしまった。

40代に入り、生活環境の変化などで少しリバウンドしたものの、今のところは「ちょっと太め」ぐらいをキープしている。

今まで入院するような大きな病気になったこともなく、ついでに言えば大きな怪我もなく、まあまあ息災に生きてきたつもりだ。

このままでいいんじゃない?……と思っていた。今までは。

 

最近、なんかしんどい。

疲れがとれない、というか、ずっと疲れているような気がする。

風邪もひきやすくなった。以前は市販の薬を飲んで一晩寝ればたいてい治っていたのだが、最近はなかなか治らない。

目がかすみ、ぼーっとしていることが多くなり、集中力がなくなり……。

まあ「老化」と言ってしまえばそれまでだが、これまであまり体のことを気にしなかったツケが回ってきているのかもしれない。

あとどのくらい生きるのかしらないが、駄目になったからといって新しくするわけにもいかないのが自分の体だ。なんとか「補修」しながら生きていかなければならない。

 

前置きが長くなったが、そういうわけで生活習慣、とりわけ食生活を見直さなければ、と思っている。

そこで参考にしたいのが、こちら。

魚柄仁之助『ひと月9000円の快適食生活【文庫版】』(飛鳥新社、2015 / 元版は1997)だ。

 

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この本は「ひと月9000円」というところが注目されたのか、元版の単行本はかなり売れたらしい。

しかしこれは節約を目的とした本ではない。「ひと月9000円」はあくまで結果であって、目的は安全で健康的な食事を簡単に(短時間で)自分で作れるようになるということ。

もちろん、毎日3食全部自炊できる人は少ないと思う。私も無理だ。

しかし、1食だけでも、休日だけでも自分が食べるものを自分で作ってみるのは意味のあることだと思う。

最近では料理ができることを「女子力」が高いなどというけれど、料理は「女子力」ではなく「人間力」だからだ。

 

えさを獲る必要がなくなった動物園のライオンは自活できなくなり、給餌の時間を待って食べるだけの家畜化された「百獣の王」となる。一日三度の食事を他人に任せる(外食などの非自炊)人間も、同様に家畜化されていく。完全無欠の栄養食というものが仮にあったとして、それを体内にとり入れていれば「健康管理は万全さっ!」とでも思ってるんでしょうか、今の日本人は?(p.374)

 

健康長寿のための食養生とは「何を食べればいいのか?」ではなく、「どんな食生活習慣を続けていくか?」が重要なんです。(p.375)

 

 

というわけで、ヨーグルトが体にいいのは知っているし、嫌いではないのだが、「ヨーグルトさえ食べていれば安心」というわけでは、もちろん、ない。

さて、とりあえず、ヒジキと切り干し大根でも買ってくるか。

 

 

 

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懐かしい未来

 

ロンドンの地下鉄に「短篇小説の自動販売機」が設置された、というニュースを読んだ。

 

courrier.jp

 

 ボタンを押すと、レシート状の長い紙に小説が印刷されて出てくるらしい。1分から5分で読めるというから、短篇というよりショート・ショートのようなものか。しかも無料とのこと。

このニュースを読んだとき、私は「なんか未来っぽい」と思った。

しかしよく考えれば、スマホ電子書籍を読む方がよほど「未来っぽい」読書といえる。

それなのになぜ私はこの自動販売機を「未来っぽい」と感じたのだろう。

 

たぶん私がその時感じた「未来」は、いわゆる「レトロフューチャー」的なものだったのではないかと思う。

レトロフューチャー」というのは、20世紀の初頭や中頃に想像された「未来」のイメージで、意味としては古風な未来とか、古くなった未来、あるいは懐かしい未来といった感じか。 

例えばコンピューター。昔のSF映画や特撮などには、壁一面に赤や緑のランプが点滅し、映画のフィルムのようなリールが回転しているコンピューターが描かれていたりする。

しかしその巨大なコンピューターができることは、現在のパソコン一台にも及ばない。

現実の技術が空想の未来をあっさりと追い越したのだ。

また、実現していなくても古いと感じるイメージもある。

例えば、タイヤがなくて空中を滑るように移動する車。

確かにそんな技術はまだまだ実現しそうにないが、にもかかわらず、そのイメージはすでに古臭い感じがする。

こういった過去の「未来」(ややこしい表現だ)は現在ではちょっと滑稽な感じさえするが、なんとなくノスタルジックな懐かしさがある。

 

冒頭に挙げた「小説の自動販売機」もそんな「レトロフューチャー」の匂いがする。

4、50年代のアシモフハインラインの小説にでも出てきそうな感じだ。(そういえば、昔のSFのコンピューターもなにやら長いレシートのような紙を吐き出してなかったか?)

もちろんこの自動販売機を企画した人たちは、あえてその古い感じを利用している。

それは「このプロジェクトは、デジタル時代の解毒剤になるはずです」というコメントを見ても伺える。

デジタル的な進歩に対して、あえて「紙」に「小説」を「印刷」することで、半歩ほど後退してみせた、といったところか。

 

 

世の中の事物や人間の思想は、必ずしも新しくなる一方とは限らない。形を変えずに残っていくものもあれば、逆に古い形に戻るものだってあるかもしれない。(とくに思想はそうだ)

人間は「新しさ」と「古さ」の間を行きつ戻りつしながら未来に向かっていくのだろう。

そうやってたどりつく未来がどんなものなのか、ちょっと想像できないけれど、願わくばこの時代遅れのオッサンの居場所も残しておいてもらいたいと、切に思う。

 

 

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【おまけ】「勇気をください」

 

前回読んだ『ビヨン・ボルグ  我がテニス』(後藤新弥訳、日刊スポーツ出版社、1980)の奥付に、こんな文章があった。

 

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奥付や巻末に「ご意見、ご感想をお寄せください」といった出版社のメッセージが掲載されるのは珍しくないが、「勇気をください」って……。

熱い気持ちは伝わるけど。

 

 

真剣に、だが深刻にはなるな

 

40年ほど前に『ジャンプ』で『テニスボーイ』(寺島優小谷憲一)という漫画が連載されていた。

私は特にテニスに興味があったわけではないが、その漫画がすごく好きだった。いわゆるスポ根とは違っておしゃれな感じで(特に女性キャラが)、それでいてとても熱い漫画だった。

私にとって『ジャンプ』のテニス漫画といえば、『テニスの王子様』ではなくいまでも『テニスボーイ』だ。

 

その『テニスボーイ』の中で、当時の男子のトッププレイヤーだったビヨン・ボルグの言葉が引用されていた。

「真剣なプレー、だが深刻にはなるな」

いま手元に本がないので正確ではないかもしれないが、こういう言葉だったと思う。当時の私はまだ子どもだったが、40年経ったいまでも覚えているということは、子どもなりに「これは大切な言葉だ」と思ったのだろう。(ちなみに、ネットで調べてみると、この言葉は一般的には「深刻になるな、真剣になれ」と訳されているようだ)

 

先日ヤフオクを見ていたら、そのビヨン・ボルグの自伝『ビヨン・ボルグ  我がテニス』(後藤新弥訳、日刊スポーツ出版社、1980)を見つけたので思わず買ってしまった。

 

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ボルグは1956年、スウェーデンのソーデタルエという所に生まれる。9歳の時からテニスを始め、……中略して、1980年にはまぎれもなく世界No. 1プレイヤーだった。

 

やはり当時のトッププレイヤーだったマッケンローは、強烈なサーブの後に素早くネットに詰めてボレーを決める攻撃的なプレーをするが、ボルグは対照的にベースラインから長いボールを打ち合う、いわば「我慢のテニス」といったスタイルだ。

正確に、粘り強く打ち合い、相手がミスをするのを待つ。あるいは、相手が我慢できずにネットに出て来たところを、パッシングショットで相手の脇を抜く。

実際にボルグの試合を見たことはないが、たぶん「地味」な感じがするのではないか。よくいえば「玄人好み」というか。

 

ボルグとマッケンローはプレースタイル以外でも好対照だ。

コート上で感情を露わにし、いかにも喜怒哀楽の激しいマッケンローに対して、ボルグは常に冷静沈着、無表情、感情を表に出さない。疑わしいジャッジに対しても抗議しない。それでついたあだ名が「アイスマン」あるいは「氷のボルグ」。

ボルグはまたこんなことも言っている。

私は敗戦をあまり苦にすることがない。試合が終われば、すべては終わりなのだ。同様に勝った時も、それほどは余韻を楽しまない。(p.12)

一言で言えばメンタルが強いということだが、これは冒頭に挙げた「真剣になっても深刻にはならない」にも通じている。

 

精神力の強さ、我慢強さということでは、「訳者あとがき」に書かれている、ボルグが直接訳者に語ったという言葉も印象的だ。ボルグはテニスにおいて(自分自身を含めた)人を育てることを、花に喩えて次のように語る。

「どんな花だって、その日がくればものの見事に、美しい姿を見せてくれるのさ。その日まで耐える苦労が多いほど、花も美しいし、見る側の喜びも大きくなる。しかし、ツボミを強引にこじあけても花は咲かないし、肥料を与えすぎれば枯れてしまう。咲くのがおそいと叱ってムチでたたけばーー花は死ぬしかないんだよ。僕らに出来ることは、水と、空気と、太陽を与えて、つまり自然のままにして暖かく見守ることなのだ」(p.291)

 

「スミレの種にバラは咲かない。スミレにバラになれというのは、言う方がおかしい。しかし、スミレはスミレでもよいではないか。スミレの中で、一番美しい花を、一番長い間咲かせることは、どれほど尊いことだろう。無理にバラに似せようとするよりも」(p.292)

 

もちろんこれはテニス以外にも通じることだ。

 

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