何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

懐かしい未来

 

ロンドンの地下鉄に「短篇小説の自動販売機」が設置された、というニュースを読んだ。

 

courrier.jp

 

 ボタンを押すと、レシート状の長い紙に小説が印刷されて出てくるらしい。1分から5分で読めるというから、短篇というよりショート・ショートのようなものか。しかも無料とのこと。

このニュースを読んだとき、私は「なんか未来っぽい」と思った。

しかしよく考えれば、スマホ電子書籍を読む方がよほど「未来っぽい」読書といえる。

それなのになぜ私はこの自動販売機を「未来っぽい」と感じたのだろう。

 

たぶん私がその時感じた「未来」は、いわゆる「レトロフューチャー」的なものだったのではないかと思う。

レトロフューチャー」というのは、20世紀の初頭や中頃に想像された「未来」のイメージで、意味としては古風な未来とか、古くなった未来、あるいは懐かしい未来といった感じか。 

例えばコンピューター。昔のSF映画や特撮などには、壁一面に赤や緑のランプが点滅し、映画のフィルムのようなリールが回転しているコンピューターが描かれていたりする。

しかしその巨大なコンピューターができることは、現在のパソコン一台にも及ばない。

現実の技術が空想の未来をあっさりと追い越したのだ。

また、実現していなくても古いと感じるイメージもある。

例えば、タイヤがなくて空中を滑るように移動する車。

確かにそんな技術はまだまだ実現しそうにないが、にもかかわらず、そのイメージはすでに古臭い感じがする。

こういった過去の「未来」(ややこしい表現だ)は現在ではちょっと滑稽な感じさえするが、なんとなくノスタルジックな懐かしさがある。

 

冒頭に挙げた「小説の自動販売機」もそんな「レトロフューチャー」の匂いがする。

4、50年代のアシモフハインラインの小説にでも出てきそうな感じだ。(そういえば、昔のSFのコンピューターもなにやら長いレシートのような紙を吐き出してなかったか?)

もちろんこの自動販売機を企画した人たちは、あえてその古い感じを利用している。

それは「このプロジェクトは、デジタル時代の解毒剤になるはずです」というコメントを見ても伺える。

デジタル的な進歩に対して、あえて「紙」に「小説」を「印刷」することで、半歩ほど後退してみせた、といったところか。

 

 

世の中の事物や人間の思想は、必ずしも新しくなる一方とは限らない。形を変えずに残っていくものもあれば、逆に古い形に戻るものだってあるかもしれない。(とくに思想はそうだ)

人間は「新しさ」と「古さ」の間を行きつ戻りつしながら未来に向かっていくのだろう。

そうやってたどりつく未来がどんなものなのか、ちょっと想像できないけれど、願わくばこの時代遅れのオッサンの居場所も残しておいてもらいたいと、切に思う。

 

 

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