何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

精神のサプリ

 

ときどき無性に古くて安い本が買いたくなる。まあ、古本病の発作のようなものだ。

この場合の「古い」というのはだいたい戦前ぐらいで、「安い」というのはおおむね500円以下(できれば送料込みで)だ。そういう時はもっぱらヤフオクをを漁ることになるのだが、よく探せばその条件で買える本が見つかる。

ただし、それは有名作家の本のような筋の通ったものではない。素性のよくわからない雑本がほとんどだ。

だが、古い本はそういう雑本の方がかえっておもしろい。

  

そういう理由で買って、今回読んだのがこちら。

鈴木魅『精神修養  道歌物語』(忠誠堂、1914)

 

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 和暦でいえば大正3年(実際に所持しているのは大正7年の43版)、100年以上前の本だ。文庫サイズの小型本で、状態は悪いが100円だった。

「道歌」という言葉は初めて聞いたのだが、意味は「道徳的、または教訓的短歌」というもの。最初から人を教化する目的で作られたものもあれば、普通の短歌を特に道徳的に解釈したものもある。

この本は、既存の道歌を引用して、それに対して著者(正確には編著者)の鈴木魅という人が解説を加えるという構成になっている。(この鈴木魅という人に関してはまったくわからなかった。名前も正確に読めない)

そんな説教くさいものを読んでおもしろいのか?  と問われると……うーん、微妙。

感想としては「おもしろい」とか「つまらない」というよりも、「なるほど」とか「ごもっとも」という感じになってしまう。

まあ、論より証拠、いくつか見てみよう。

 

例えば読書の大切さを説く道歌としてこんなのがある。

 

      折々に遊ぶいとまのある人の   いとまなしとて文(ふみ)読まぬかな

 

「文」はこの場合「書物」を指す。この道歌を引用した後に、著者はこんなふうに解説を加える。

 

吾々が少しでも読書による修養を怠る時には、直ちに様々なる妄想に襲はれ、卑しむべき情慾の制止に苦しみ、品性は忽ち堕落して狡黠(わるがしこ)くなり、憤(おこ)り易くなり、遂には人間の本心を失うて悪魔の如く変化して了ふかも判らぬのだ。

 

まあ、本を読まなくても悪魔にはならないと思うが……。ときどき解説が飛躍したり、熱くなりすぎるところがあって、そこがちょっとおもしろい。

 

      文(ふみ)読めば昔の人はなかりけり  みな今もある吾友にして

 

ああ、これはよくわかる。納得だ。

 

      恐るべし槍よりこわき舌の先  これが我身を突きくづすなり 

 

口は災いの元ということですな。

 

      今日ほめて明日悪く云ふ人の口  泣くも笑ふも嘘の世の中 

 

他人の評価はあてにならない。振り回されてはいけない。

この本は特に男性向けというわけではないが、女性(芸者なども含む)に惑わされてはいけないという内容も多い。

 

      骨かくす皮には誰も迷いけり  美人というも皮のわざなり

 

などと、身もふたもないことを言っている。

   

      世渡りは狂言綺語と同じ事  上うへも役下じたも役 

      

狂言綺語」は小説や物語、芝居などのこと。世の中のことはみんな芝居で、人は誰もがその役者である。これなんかちょっとシェークスピアっぽい。

と、まあ、こんな感じで160首余りの道歌が紹介されている。

散文で書かれると説教くさく思えることも、短歌のリズムだとストンと腑に落ちるような気がする。散文を粉薬とすれば、道歌は錠剤やカプセル薬といえるかもしれない。

いや、日々の生活を健全なものにするために常に心掛けるという意味では、薬というよりはサプリメントのようなものか。

精神のサプリとして、おひとついかが?

 

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