何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

家族のいる俳句

 

以前、ちょっとした調べ物をしているときに安住敦という俳人のこんな俳句を見つけた。

 

  啓蟄や書肆二三件梯子して

 

啓蟄」は春の季語で、要するに、春の日に本屋を2、3軒梯子したというそれだけの句なのだが、これがなぜか妙に印象に残った。

なんというか、言葉が自分にしっくりくるというか、よく馴染むような気がしたのだ。

そのときから気にはなっていたのだが、最近になってようやくこんな本を読んだ。

成瀬櫻桃子編『安住敦集』俳人協会、1994)

 

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これは安住敦の全作品から300句を選び、制作の古い順に並べ、各句にいろいろな人が短い註を付けていったものだ。

 

私は普段俳句を読まないし、もちろん自分で詠みもしない素人なので、あんまり適当な知ったかぶりをするわけにはいかないが、この本に収められている句は、私が漠然とイメージする俳句とは少し違うような気がする。

まず目につくのは、家族を詠んだ句が多いこと。とくに2人の子ども(兄妹)の句が好きだ。

 

  銀杏(いちょう)ちる兄が駈ければ妹も

  兄いもと一つの凧をあげにけり

 

たしかに子どもって急に走り出すことがあるよなあ。そして兄につられるように走り出す妹。情景が目に浮かぶようだ。子どもを見る父の眼差しの暖かさを感じる。それから約20年後ーー

 

  子が嫁さば春昼琴の音も断たむ

  鳥ぐもり子が嫁してあと妻残る

 

兄の後について走りまわっていた女の子が、もう嫁に行くのである。なんだかよその家の家族のアルバムでも見ているような気持ちになる。

そう思っていると、こんな句を見てドキッとする。

 

  妻がゐて子がゐて孤独いわし雲

 

どれだけ大切な家族がいても、ふと孤独を感じるときがある。

家族を詠んだ句ではないけれど、こんな句も印象深い。

 

  また職をさがさねばならず鳥ぐもり

  職替へてみても貧しや冬の蠅

  夏帽や反吐(へど)のでるほどへりくだり

 

いずれも昭和20年代の句だ。戦後の混乱の中での職探し。職が見つかっても生活は苦しい。仕事の上では、下げたくもない頭を下げなければならないこともあっただろう。それもやはり家族のためか。

こういう生々しい感情を詠むのは、俳句よりもむしろ短歌の領分ではないかと思う。

もちろん自然の風物を詠んだ句もあるのだが、自然よりも自分を含めた「人間」を詠んだ句が多いように感じる。

使われている言葉もそんなに特殊な感じがしないので、すっとこちらに入ってくる。(専門的なことはわからないが)特殊ではないけど独特な感じ。

最後にもう一つ、こんな耳の痛い句を。

 

  亀鳴くやかくて人生浪費して

 

うーむ……。