「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉がある。
お寺の近くに住んでいる子どもは、(いつもお経が聞こえてくるので)習ってもいないのにお経を暗誦できるようになるということから、環境が人に与える影響の大きさを語った言葉だ。
別に悪い意味で使われる言葉ではない。
しかし、ふと思ったのだが、その小僧が口にしたお経は、本当に「お経」と言えるのだろうか?
小僧が口にしたものは、耳から入ってきた〈音〉をそのままトレースしただけのもので、当然その意味内容を知っているわけではないだろう。
そうであれば、それは本物の「お経」とは言えず、「お経のようなもの」としか言えないのではないか?
なぜ唐突にこんなことを言うかといえば、短歌のことを考えていたからなのだ。
私はときどき短歌を作ったりする。意識的に作ることもあるが、ふっと思いつくこともある。ときどきこのブログにも載せている。
誰かに習ったわけではなく、真面目に研鑽しているものでもない。実に気まぐれでいいかげんなものだ。ただの「遊びごと」であり、それでいいのだと思っていた。
しかし、そうやってできたものは本当に短歌といえるものなのだろうか。
それは小僧のお経と同じで、見よう見まねの「短歌のようなもの」にすぎないのではないか。
要するに、いつまでも門前で遊ばずに、興味があるならちゃんと「入門」して、腰を据えて学ぶべきなのではないか、という気がしてきたのだ。
前置きが長くなったが、そういうわけでいまこんな本を読んでいる。
穂村弘、東直子、沢田康彦『短歌があるじゃないか。 一億人の短歌入門』(角川書店、2004)
この本は、編集者の沢田さんが主催するメールとファックスによる「シロウト」短歌会『猫又』に寄せられた短歌を、歌人の穂村さんと東さんが選評しながら三人で鼎談するというものだ。
この本を読んでまず思ったのは、
「みんな本当にこんな難しいことを考えながら短歌を作ってるんだろうか?」
ということだ。
穂村さんと東さんの解説を読んでいると、一つの短歌にいろいろな計算が働いていることがわかるのだが、みんなそんな計算をしながら作っているのだろうか。
頭で考えずに、感覚的に短歌を作れてしまう人もいるだろう。しかし穂村さんは、考えなければダメだと言う。
でも、そこがやっぱりそれはそれで大きな限界で、考えなくても書けるんだからいいのかっていうと、短歌はやはりそうじゃない。ここのところがすごく面白いんですが。(p.144)
たぶん実際に短歌を作るときは、意識的な計算と、経験に裏打ちされた無意識的な計算(≒勘) の両方が働いているのだと思うのだが、なんか難しそうだなあ。
沢田さんは、「むしろ『こんなんならオレにもできる』とその気になって」気軽に短歌を作ってほしいと書いているが、いやいや、私には逆にハードルが上がったような気がした。
さて、どうしたものか。
やっぱり門前で気楽に遊んでいたほうがいいのか、思いきって門の中に一歩足を踏み入れたほうがいいのか。
小僧は思案中。