何を読んでも何かを思いだす

人生の半分はフィクションでできている。

著名人のたしなみ

 

前回読んだ鈴木魅『精神修養  道歌物語』の巻頭には、2人の著名人の「書」が掲載されている。

 

一人は新紙幣の顔として最近なにかと話題の渋沢栄一

 

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言葉は『論語』の中の一節で、いかにもという感じがする。

日付けとして「甲寅(きのえとら=大正3年)雨水節(二十四節気の一つで、2月19日頃)」とあるので、この本(大正3年4月刊)のためにわざわざ書き下ろしたものか。「青淵」は雅号。

 

もう一人は森村市左衛門。

 

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言葉は「正直の頭に神宿る」だと思う。

私はこの(6代目)森村市左衛門という人を知らなかったので、ネットでざっと調べてみた。

大雑把に言えば、日本の陶磁器を海外に輸出することで財を成した実業家だ。この時期、この人の会社(日本陶器)が制作して輸出した陶磁器が、現在では「オールドノリタケ」と呼ばれてアンティークとして人気が高い。(ちなみに「ノリタケ」とは会社があった愛知県内の地名。私はずっと人の名前だと思っていた)

この人も渋沢と同じく男爵に叙されている。

二人の著名な実業家の書を掲載することで、修養書として説得力を持たせるというか、本に「箔」をつける形だ。

 

実業家にかぎらず、昔の著名人(政治家や軍人など)は事あるごとに揮毫(毛筆で書などを書くこと)を求められた。(『なんでも鑑定団』にときどきそういう書が出てくる)

地方に行った時など、その土地の名士から、

「我が家の家宝にしますので、どうかひとつ……」

などと求められれば、断るわけにもいかないだろう。

そこで「うむ」などと言っておもむろに筆をとったはいいが、書いた字がつまらなければ逆にイメージダウンになってしまう。字を書いたついでに恥までかくことになる。

昔の著名人にとって書は必須の「たしなみ」だったのだ。

お手本のような上手い字でなくてもいい。なんとなくその人の人柄が感じられるような字が好ましい。

まだ日常的に筆を使っていた時代とはいえ、そういう字を書くためには、それなりの練習が必要だったのではないか?

お偉いさんもなかなかたいへんだ。